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あ行
あ行の名称、人物名、地名です。
あ行の名称
アウグスティーナ教会:
Augustinerkirche, Augustinian Church
Augustinerkirche, Augustinian Church
オーストリアのカトリック修道会であり、ホーフブルク宮殿に隣接している教会。
一部のハプスブルク家の人物の心臓が埋葬されている「心臓霊廟」がある場所として知られる。
ハプスブルク家の伝統的な埋葬法である三分割埋葬法により、心臓はアウグスティーナ教会、肉体はカプツィーナ教会、内蔵はシュテファン大聖堂にそれぞれ埋葬されている。
教会としては14世紀に設立され、教育や慈善活動を行った歴史的な教会。
フランツ・ヨーゼフ1世と皇妃エリザベートの結婚式の場でもあり、スイスで亡くなった皇妃エリザベートを多くの民衆が見送った教会でもある。
エリザベートはアウグスティーナ教会で結婚を挙げ、アウグスティーナ教会で葬儀が執り行われた。
エリザベートの願ったコルフ島への埋葬は叶わなかった。
自由を求め続けたエリザベートは「悲劇の皇妃エリザベート」として、ハプスブルク家の皇后と人々に記憶されることとなった。
暗殺:
Attentat, assassination
Attentat, assassination
政治的または個人的な理由で、要人を殺害すること。
歴史上、多くの君主や政治家が暗殺の犠牲となった。
エスターライヒ:
Österreich, esterreich
Österreich, esterreich
オーストリアのドイツ語名「Österreich」の読み(音)。
「東の国」という意味を持つ。
オーストリア=エステ:
Österreich=Est., Austria=Estate
Österreich=Est., Austria=Estate
ハプスブルク家の分家であり、イタリアのモデナ公国を統治した。
オーストリア大公家とエステ家の結合により成立。
オーストリア =ハンガリー二重帝国:
Österreichisch-ungarisches Doppelreich, Austro-Hungarian Dual Reich
Österreichisch-ungarisches Doppelreich, Austro-Hungarian Dual Reich
1867年から1918年まで存在した多民族国家。
アウスグライヒ(妥協)によって成立したオーストリアとハンガリーの二重君主制。
オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と皇妃エリザベートが統治し、同時にハンガリーの自治権を認めた。
第一次世界大戦後、敗戦により解体された。
ヴィッテルスバッハ家:
Familie Wittelsbach, Wittelsbach family
Familie Wittelsbach, Wittelsbach family
バイエルンを統治した王家。1180年から1918年まで続いた。
ルートヴィヒ2世などの著名な君主を輩出した。
美しい城や建築物、芸術や文化的資産が多く残されている。
皇妃エリザベートの実家のヴィッテルスバッハ家は、少し変わり者とされていた。
王:
König, king
König, king
国家元首である男性君主を指す称号。
多くの場合、世襲制で継承される。
尊称は「陛下」。
王女:
prinzessin, princess
prinzessin, princess
王の娘を指す称号。
王族の一員として重要な役割を果たすことが多く、王女はしばしば政略結婚で他の王族や貴族に嫁ぐことが多かった。
これにより、政治や文化的側面での交流も促された。
エリザベートの母ルドヴィカやゾフィー大公妃も、バイエルン王国の王女である。
尊称は「陛下」。
王妃:
Königin, queen
Königin, queen
王の妻を指す称号。王国において最高位の女性を指す。
王妃はしばしば宮廷内で場を仕切り、まとめ、王の代わりを務めた。
場合によっては政治的影響力を持つこともあり、特に重要な役割を果たした。
尊称は「陛下」。
あ行の人物名
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あ行の地名
オーストリア:
Österreich., Austria
中央ヨーロッパの国家。位置:北緯47.52度、東経14.55度
かつてはハプスブルク家が統治する強大な帝国だった。現在は共和制。
首都はウィーン。アルプス山脈と美しい景観で知られる。
ウィーン:
Wien, Vienna
オーストリアの首都。位置:北緯48.21度、東経16.37度
かつてはハプスブルク帝国の中心地だった。
音楽、芸術、建築の都市として世界的に有名。
か行
か行の名称、人物名、地名です。
か行の名称
家系:
Familienstammbaum, family lineage
血縁関係や世襲のある者の系統を指す。
王家や貴族家系では、継承権や称号の決定に重要な役割を果たすため、家系や称号に強くこだわる者が多く存在した。
しかし時にそれらを全く気にしない者がおり、皇妃エリザベートの父マクシミリアン・ヨーゼフ公爵がその一例である。
貴賤結婚:
morganatische Ehe, morganatic marriage
身分の異なる者同士の結婚のこと。特に貴族と平民の結婚がその典型であり、しばしば政治的・社会的な問題を引き起こした。
皇妃エリザベートの兄ルートヴィヒ・ヴィルヘルム公爵は、跡取りの権利を放棄し貴賤結婚したが、その後、娘がルドルフ皇太子のマイヤーリング事件に関わるなど、大問題を引き起こした。
カプツィーナ教会:
Kapuzinerkirche, Capuzzina Church
オーストリア・ウィーンにあるハプスブルク家の墓所。
正式名称をカイザークルフト(Kaisergruft)、インペリアル・クリプト(Imperial Crypt)と呼ばれる。
現在では観光地としても有名であり、特に目立つのはマリア・テレジアの人生を表す石棺。
フランツ・ヨーゼフ1世の横には、今もなお悲しみを誘う愛する妻エリザベート、皇太子ルドルフが眠る。
>> カプツィーナ教会公式サイト
教区教会:
Pfarrkirche, parish church
特定の地域の信者が集う教会。
地域社会の中心的な役割を果たし、洗礼や結婚式などの儀式が行われる場所。
グーゲルフップフ:
Gugelhupf.
オーストリアの伝統的なケーキ。
円環状の型で焼かれ、しばしばレーズンやナッツが入っているのが特徴。
フランツ・ヨーゼフ1世の大好物としても知られる。
グルデン:
Gulden,
1857年9月19日および1858年4月27日付でオーストリアに採用された通貨。
銀本位制で計算単位がグルデンとなる。
1グルデンは100クライツァーに相当し、元々はイタリア地域によって「フローリン」とも呼ばれた。
1870年3月9日付で、金貨のグルデンも鋳造されるようになり、1879年には民間人の費用負担での銀のグルデンの製造が中止となった。
エリザベートの時代では、銀として換算していた。
エリザベートが結婚時に持参金として持っていった5万グルデンは相当な額となる。
皇位継承権:
kaiserliche Nachfolge, imperial succession
皇位を継承する権利を指す。
多くの場合、男系継承が原則とされてきたが、国や時代により異なる制度が存在する。
現代では女性による皇位継承権が認められるなど、その形も変わりつつある。
公爵:
Herzog, duke
欧州の貴族の階級の一つ。王の親族など、王族に次ぐ高位貴族を指す。
広大な領地を治める権利を持つことが多く、時に政治的な影響力を持つ。
尊称は「殿下」。
侯爵:
marquis
欧州の貴族の階級の一つ。公爵と伯爵の間に位置する。
「侯爵」は日本語での呼称で、国により呼び方は異なる。
多くは国境や辺境を守る貴族として重要視されていた。
尊称は「殿下」。
公妃:
Herzogin, consort of a prince(duke)
公爵の妻を指す称号。
女性の貴族社会において非常に高い地位を占め、社交界で重要な役割を果たすことが多かった。
尊称は「殿下」。
皇后:
Kaiserin, empress
皇帝の正妻を指す称号。
宮中の最高位の女性として、国家の儀式や外交にも重要な役割を担い、その責任は非常に重い。
エリザベートは一介の公女から皇后の地位に上り詰めたが、その役目をほぼ放棄し続けた。
尊称は「陛下」。
皇太子:
Kronprinz, crown prince
皇帝の後継者となる者。皇位継承者とも呼ばれる。
帝位を継承する権利を持ち、国政や外交にも深く関与することが多かった。
尊称は「殿下」。
皇帝:
Kaiser, emperor
最高位の君主を指す称号。通常、複数の国や民族を支配する大帝国の統治者に用いられる。
中国起源の称号で、西洋では「Emperor」に相当し、古代ローマ帝国のアウグストゥス以来、多くの国で使用された。
皇帝は一般的に王よりも上位とされ、しばしば神聖さや普遍的な支配権を示唆する称号とされた。
ハプスブルク家の統治者も、神聖ローマ帝国皇帝やオーストリア皇帝として帝政廃止までこの称号を用いた。
日本では天皇陛下に相当する。
尊称は「陛下」。
皇妃:
Kaiserin, empress
皇帝の妻を指す称号。
皇后と同義で使われることもあるが、正妻でない場合もこの称号が用いられることがある。
エリザベートは結婚と同時に皇妃となった。
尊称は「陛下」。
公女:
Adelstochter, daughter of a nobleman
公爵の娘を指す称号で「プリンセス」とも呼ばれる。
王女と同様に高い身分を持つが、王家の直系ではない。
公女は貴族社会において重要な地位を占め、しばしば政略結婚の対象となった。
教育を受け、芸術や慈善活動に携わることも多かった。
例えば、オーストリアのハプスブルク家の公女たちは、ヨーロッパの他の王家や貴族家系と結婚することで、国家間の同盟関係を強化する役割を果たした。
エリザベートは公女としてハプスブルク家に嫁いだ。
尊称は「殿下」。
宮廷:
Königshof, royal court
君主や貴族の居住地および政治の中心地。
政治、文化、芸術の中心として機能し、宮廷への出入りは大きな意味を持っていた。
そのため貴族たちが集まり、独自の慣習や儀礼が生まれた。
宮殿:
Palast, palace
君主や貴族の豪華な住居を指す。
政治の中心地であると同時に、権力を象徴し、芸術や文化の発展に大きな影響を与えた。
権力の象徴という意味では、日本では天守閣に相当し、天守閣を持つ居城としては、宮殿に相当する。
か行の人物名
カール大帝:
Karl der Große, Charlemagne
西ローマ帝国の崩壊後、最初の「西ローマ皇帝」として復活させた人物。
フランク王国の王として即位し、800年に教皇レオ3世によってローマ皇帝に戴冠された。
カール大帝の治世では「カロリング朝ルネサンス」と呼ばれる文化的、宗教的な改革が進められ、その業績は後の神聖ローマ帝国の基盤となった。
彼はフランク王国の領土を拡大し、、ローマ皇帝として戴冠した。学術・文化の振興に影響し、ヨーロッパの統合的な統治システムの形成することで、ヨーロッパの中世世界の礎を築いた。
カール大帝の業績は後に神聖ローマ帝国の成立へとつながり、彼の統治は、キリスト教世界の発展や封建制社会の形成にも多大な影響を与えた。
カール大帝なくして、ハプスブルク家は存在しなかったと言える。
か行の地名
ギリシャ:
Griechenland, Greece
南東ヨーロッパの国家。位置:北緯39.07度、東経21.82度
ギリシャ神話や古代文明の発祥地として知られ、数多くの遺跡が残る。
首都は知の女神を祀るアテネ。
五輪発祥の地であり、聖火は今もギリシャから灯されている。
皇妃エリザベートもギリシャを愛した。
クロアチア:
Kroatien, Croatia
東ヨーロッパの国家。位置:北緯45.10度、東経15.20度
アドリア海に面し、美しい海岸線を持つ。首都はザグレブ。
かつてはハプスブルク家が統治していたが、現在では独立した国家である。
コルフ島:
Νήσος Κέρκυρα, Corfù, Corcyra
ギリシャのイオニア海に浮かぶ島。位置:北緯39.62度、東経19.92度
美しいビーチと豊かな自然で知られる。
オーストリア皇妃エリザベートが愛した場所で、彼女が建造した「アヒリオン宮殿」がある。
アヒリオン宮殿は次女ギーゼラが相続したが、現在は観光地となっている。
エリザベートはコルフ島への埋葬または散骨を願ったが、暗殺事件によりカプツィーナ教会に埋葬された。
さ行
さ行の名称、人物名、地名です。
さ行の名称
在位:
Regierungszeit, reign
君主が位にある期間を指す。
在位期間中に行われた政策が、後にその君主の評価を決定づけることが多い。
歴史的な見方をすると、在位期間では君主を評価するには短すぎ、大きな功績は後世に認められることも少なくない。
宰相:
Premierminister, prime ministe
政府の最高責任者。首相に相当する。
君主制国家では、君主の信任を得て国政を運営する重要な役職であった。
サラエボ事件:
Attentat von Sarajevo, assassination of Archduke Franz Ferdinand
1914年6月28日、オーストリア皇太子(大公)フランツ・フェルディナントとその妃ゾフィーが、セルビア人青年ガウリロ・プリンツィプによって暗殺された事件。
オーストリア=ハンガリー二重帝国はこれによりボスニアに宣戦布告し、第一次世界大戦の直接的な原因となった。
学校の歴史で学ぶことが多く、「サラエボ事件」は一般的にも有名である。
しかしながらその背景が非常に複雑であるため、より詳しく知るには時間を要する。
亡くなったフランツ・フェルディナント大公は、日本にカイザリン・エリザベート号で旅をしているが、第一次世界大戦により青島(チンタオ)に沈むこととなり、日本もこれに関係することとなった。
三分割埋葬法:
Dreiteiliger Bestattungsritus, Three-Part Burial
ハプスブルク家の伝統的な埋葬方法。
亡骸はエンバーミング処理された後、心臓はアウグスティーナ教会の心臓霊廟、内臓はシュテファン大聖堂の公墓、肉体はカプツィーナ教会のカイザークルフトに埋葬される。
エジプトのミイラとは違うものであり、復活を願うものではなく、魂を分割して神に奉納する儀式的な意味を持つ。衛生上の理由もあった。
また近代においてはこの慣習も薄れ、ハプスブルク家大公フランツ・カール大公を最後に、ほとんど行われることがなくなった。
シェーンブルン宮殿:
Schloss Schönbrunn, Schönbrunn Palace
ウィーンにある宮殿。位置:北緯48.18度、東経16.31度
ハプスブルク家の夏の離宮として知られる。
18世紀のロココ・バロック様式の建築と広大な庭園で有名であり、1,400を超える部屋とマリア・テレジア・イエローの柔らかで優しくも壮大な美しさが特徴的。
現在では世界遺産に登録され、庭園を含む多くの見学が可能となっている。
>> シェーンブルン宮殿公式サイト
出生名:
Geburtsname, Birth Name
生まれた時につけられた本名のこと。
特に王族や貴族、また結婚や改名によって名前が変わった人物について使われる用語。
歴史上の人物を研究する際に重要な情報となる。
例えば、オーストリア皇后エリザベートの出生名は「エリザベート・アマーリエ・オイゲーニエ」で、愛称の「シシィ」とは区別される。
また、結婚後に夫の姓を名乗る文化圏では、女性の旧姓を指すことが多い。
出生名はその人物の出身や家系などアイデンティティを理解する上で欠かせない要素でもあり、歴史や家族の家系図を追う際に非常に有益な情報となる。
洗礼:
Taufe, Baptism
キリスト教における最も重要な儀式の一つ。
水を使い信仰を公に表明し、教会の一員として迎え入れられる儀式である。
多くの宗派で幼児洗礼が行われ、成人になる前に信仰の証として受けることが一般的。
特に王族や貴族の洗礼は国家的行事となることが多く、国民にとっても重要な儀式となる。
洗礼の際には、聖人の名前が与えられることが多く、名付けや守護聖人としての意味も込められている。
代表的な聖人は、聖母マリア(Maria,Virgin Mary)、聖ヨーゼフ(Joseph)、聖ペテロ(Peter)、聖パウロ(Paul)、聖フランチェスコ(Francis of Assisi)、聖テレサ(Teresa of Ávila)、聖ニコラウス(Nikolaus)、聖エリザベート(Elisabeth)など。
洗礼名:
Taufname, Baptismal Name
キリスト教の洗礼を受けた際につけられる名前。
多くの場合、聖人の名前が選ばれ、その人物の守護聖人としての意味を持つ。
マリア(Maria)などは、特に君主や貴族間で多くつけられている。
宗教的な意味合いや家系の伝統を反映することが多いとされる。
称号:
Titel, title
地位や身分を表す名称であり、特に王族や貴族の場合、複数の称号を持つことが一般的。
王族や貴族は、生まれながらにしてまたは結婚や領地の拡大などによって、さまざまな称号を取得する。
これには、領地名や爵位などが含まれ、社会的な地位や政治的な影響力を反映していることが多い。
尊称:
Ehrentitel, honorary title
尊称とは単なる敬称以上の意味を持ち、その人物の社会的地位や権力を示す重要な指標であった。
中世から近代にかけての宮廷社会では、適切な尊称を使用することが礼儀とされ、外交や社交の場で重要な役割を果たした。
- 「陛下」(Your Majesty):皇帝や国王、女王に対して
- 「殿下」(Your Highness):王子、王女、大公などに対して
- 「閣下」(Your Excellency):高位の貴族や政治家に対して
また単に地位の高い人々に対して使われるのではなく、上下関係を尊重し、階級社会を維持するものであった。
尊称の誤りや省略は失礼では済まされず、政治的なトラブルを引き起こすこともあった。
日本でも「様」「殿」などの尊称が使われるが、ヨーロッパの王族・貴族社会では、より複雑で厳格な尊称のシステムとして存在した。
尊称は極めて重いものであり、王族や貴族の特権とも直結する。
そのため宮廷における厳格な社交儀礼であり、ヨーロッパの王族・貴族を学ぶ際は忘れてはならないものである。
例えばイギリスではその名残の階級制度が現在でも色濃く残っている。
女王:
Königin, queen
国家元首である女性君主、または王の妻を指す称号。
君主制国家において最高位の女性を意味するが、具体的な意味は文脈により異なる。
- 在位女王(即位した君主):自ら王位に就き、国家を統治する役割を持つ。
例として、イギリスのエリザベス1世やエリザベス2世が挙げられる。 - 王妃(王の妻):夫である王の補佐役を担うが、基本的には国家の元首ではない。
女王の称号を持つが、統治権は持たない。
尊称は「陛下」(Her Majesty)となる。
一部の国や場合によっては「王妃殿下」(Her Royal Highness) と呼ばれることもある。
女性が嫁ぎ女王の称号がついても、国家元首でない場合もある。
日本の皇室における「女王」は、親王(皇族男性)の娘に与えられる称号であり、天皇の直系ではない女性皇族を指す。
これを理解することは、王室や君主制を学ぶ上で非常に重要である。
情死:
Doppelselbstmord, Double Suicide
恋愛関係にある者同士が、一緒に命を絶つ行為を指す言葉。
日本の伝統的な演劇や文学にも登場するテーマだが、ヨーロッパ王族の中でも悲劇的な事件として知られるケースがある。
例えば皇妃エリザベートの唯一の息子であるオーストリア皇太子ルドルフと男爵令嬢マリー・ヴェッツェラが起こしたマイヤーリング事件は、当時のハプスブルク家のみならず、ヨーロッパ中を震撼させた。
二人はほぼ共に命を絶ち、王族の運命を大きく揺るがす悲劇的な結末を迎えた。
この事件以降、エリザベートは黒い服(喪服)を常に身につける様になったとされ、悲しみを表すようになった。
絶対君主主義:
Absolutismus, Absolutism
君主が絶対的な権力を持つ政治体制のことを指す。
17〜18世紀のヨーロッパで一般的だったが、フランスのルイ14世やロシアのピョートル大帝など、多くの君主が絶対君主主義を実施した。
オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世も、母ゾフィー大公妃の画策によりスパルタ教育を受け18歳で即位。
亡くなるその時まで絶対君主主義を貫き通したが、この体制は時代遅れとされ、近代化の波に乗り遅れることになった。
彼の長すぎた統治は、息子ルドルフ皇太子の死や、ハプスブルク家の没落を招く要因の一つともされる。
狩猟:
Jagd, Hunting
動物を捕獲する行為であり、特にヨーロッパの貴族社会では重要な娯楽として行われた。
狩猟は単なる娯楽に留まらず、社交の場や貴族の特権を象徴する活動でもあった。
多くの宮廷で狩猟は、政治的な交流や縁を築くための手段としても重んじられた。
また一般庶民には狩猟が制限されていた。
オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は狩猟を非常に好み、多忙な中でも狩猟の時間を大切にした。
また、皇妃エリザベートも狩猟を愛し、特に馬術と共に楽しんだとされる。
マイヤーリング事件が起きた館は、ルドルフ皇太子の狩猟館でもあった。
女帝:
Kaiserin, Empress
女性の皇帝を指す称号であり、皇位を持つ国家で君臨する女性君主を指す。
歴史上、女性の皇帝は多くないが、マリア・テレジア(オーストリア)やエカテリーナ2世(ロシア)は広く知られている。
マリア・テレジアは厳密には「女帝」とは呼ばれず、「女王(皇后)」としての地位を持ちながら、神聖ローマ皇帝の配偶者としても統治した。
マリア・テレジアはフランス革命で悲劇的な最期を遂げたマリー・アントワネットの母であり、ハプスブルク家としては珍しい恋愛結婚をした。
カプツィーナ教会では彼女の眠る石棺は非常に豪華で、当時の権勢を表している。
エカテリーナ2世はロシアの全権を握り「皇帝(ツァーリ)」として君臨し、ロシア帝国を発展させた。
専制君主:
Autokrat, autocrat
専制君主は、権力を一手に握る君主で、絶対的な統治を行う。
特に「啓蒙専制君主」として知られるタイプは、18世紀のヨーロッパにおいて特徴的だった。
これらの君主は、自らの権力を強化する一方で、啓蒙思想に基づいて国家の改革を進め、教育や文化、経済の発展にも積極的に取り組んだ。
代表的な君主として、フリードリヒ2世(プロイセン)やマリア・テレジア(オーストリア)、エカテリーナ2世(ロシア)などが挙げられる。
彼らは自らの絶対的な権力を保ちながら、啓蒙思想に影響を受け、国を繁栄させるための施策を導入した。
オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世もこれを目指したが、時代に合わず、ハプスブルク家ならびにオーストリアを立て直すことができなかったとされる。
シュテファン大聖堂:
Stephansdom, St. Stephen’s Cathedral
ウィーンを象徴するゴシック様式の大聖堂。位置:北緯48.21度、東経16.37度
主塔は高さ137メートルを誇り、「シュテファンズドーム」の名で親しまれ、ウィーンを見守り続けている。
この大聖堂は、ハプスブルク家の多くの重要な儀式が行われた歴史的な場所であり、結婚式や戴冠式が行われた。
ハプスブルク家やオーストリアの歴代君主の内臓が埋葬されていることでも有名であり、ドナウ川と共にその存在感は大きい。
譲位:
Abdankung, abdication
君主が自発的に位を譲ること。高齢や病気、政治的理由などにより行われる場合がある。
譲位は平和的に行われ自発的であることが一般的だが、時に政治的圧力や反乱などで譲位を促され、やむ無く退位した君主も多く存在する。
オーストリア皇帝フェルディナント1世は1848年の革命の影響を受け、周囲の圧力のもと甥のフランツ・ヨーゼフ1世に譲った。
皇妃エリザベートの祖国バイエルンでは、バイエルン王ルートヴィヒ1世が踊り子ローラ・モンテスとのスキャンダルにより退位を余儀なくされた。
神聖ローマ帝国:
Heiliges Römisches Reich, Holy Roman Empire
962年から1806年まで存在した、中央ヨーロッパの政治体制。
正式名称は「神聖ローマ帝国」だが、後に「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」とも呼ばれた。
- 領域:現在のドイツ、オーストリア、チェコ、北イタリアなどを含む広大な地域
- 統治者:皇帝が統治したが、実際の権力は限定的だった
- 構造:多数の小国家(公国、伯爵領、自由都市など)の緩やかな連合体
- 選帝侯:皇帝を選ぶ権利を持つ有力諸侯
重要な出来事:
- 800年:カール大帝(シャルルマーニュ)が西ローマ皇帝として戴冠
- 843年:ヴェルダン条約でカロリング帝国が分裂
- 911年:東フランク王国でカロリング朝が断絶
- 919年:ザクセン公ハインリヒ1世がフランク王に選出(オットー朝の始まり)
- 962年:オットー1世が神聖ローマ帝国の初代皇帝として戴冠、これにより正式に新生ローマ帝国が成立
- 1356年:金印勅書により選帝侯制度が確立
- 1648年:ウェストファリア条約で諸侯の自立性が高まる
- 1806年:ナポレオン1世の侵攻により解体
神聖ローマ帝国は、カール大帝の帝国を理想とし、その正統な後継者を自認していた。
オットー1世は、東フランク王国の支配者としてカロリング朝の伝統を引き継ぎ、さらにローマ皇帝の称号を得ることで、より普遍的な権威を主張した。
ハプスブルク家は15世紀以降、ほぼ継続して神聖ローマ皇帝の地位を独占した。
しかし、「神聖でもなく、ローマ的でもなく、帝国でもない」と評されるほど、後期には形骸化していた。
ハプスブルク家は神聖ローマ帝国の地位に固執し続けるあまり、時代に大きく遅れ、帝国と共に衰退の一途を辿った。
神聖ローマ帝国の存在は、現代のドイツやオーストリアの歴史に大きな影響を与えている。
選帝侯:
Kurfürst, Prince-Elector
神聖ローマ帝国において、皇帝を選出する権利を持つ諸侯を指す。
選帝侯は強大な権力を持ち、帝国内で特別な地位を占め、皇帝選出のために重要な役割を果たしていた。
選帝侯の地位は次第に世襲され、各選帝侯は独自の領地を支配していた。
皇妃エリザベートの祖父で祖国バイエルンの初代国王マクシミリアン1世ヨーゼフは、元々選帝侯で、ゾフィー大公妃やエリザベートの母ルドヴィカの父でもある。
選帝権:
Kurrecht, right of election
神聖ローマ帝国の皇帝を選出する権利。
選帝侯にのみ与えられた特権であり、帝国の政治において非常に大きな影響力を持っていた。
選定権を持つ選帝侯は、7名(後に増加)で構成され、神聖ローマ皇帝の即位には彼らの支持が不可欠だった。
ハプスブルク家の創始者ルドルフ1世も、選定権を持つ選帝侯たちによって皇帝に選ばれた。
当初はハプスブルク家が強力な権力を持つまでには至らず、ルドルフ1世自身も形式的な皇帝として見なされることが多かった。
しかし、彼の統治と戦略的な結婚政策により、ハプスブルク家は次第に権力を強化し、その領地と地位を拡大していった。
皇妃エリザベートの息子ルドルフ皇太子の名前は、ルドルフ1世に由来するが、奇しくもハプスブルク家を開き、閉じる名前となった。
さ行の人物名
シシィ:
Sissi, Sissy, Sisi
皇妃エリザベート(1837年〜1898年)の愛称。オーストリア皇后、ハンガリー王妃。
美貌と奔放な性格で知られ、スイスのジュネーブ、レマン湖畔で悲劇的な最期を遂げた。
シシィという愛称はエリザベートの幼少期からの呼び名で、親しい家族や身内、友人が呼んでいたとされる。
一説によると、エリザベートを英語読みした際の愛称「リシィ」が「シシィ」となったとも言われ、現在もなお多くの人々に親しみを込めて呼ばれている。
さ行の地名
サラエボ:
Sarajevo
ボスニア・ヘルツェゴビナの首都。位置:北緯43.85度、東経18.38度
1914年にオーストリア皇太子フランツ・フェルディナント夫妻が暗殺された場所として歴史に名を残し、第一次世界大戦の入り口として学ぶことも多い。
シチリア:
Sizilien, Sicilia, Sicily
シチリア最大の島。位置:北緯37.60度、東経14.00度
地中海の中心に位置し、古代からの交通の要所。
古代ギリシャの遺跡や中世の建造物が数多く残り、歴史情緒あふれる文化も魅力の一つ。
観光地としても人気があり、マフィア発祥の地としても知られている。
シュタルンベルク湖:
Starnberger See, Lake Starnberg
ドイツ・バイエルン州の湖。位置:北緯47.90度、東経11.30度
ミュンヘン近郊にあり、美しい山々や湖畔は、避暑地として人気があり、冬は雪で覆われまた別の美しさを醸し出す。
バイエルン王ルートヴィヒ2世が謎の死を遂げた場所としても知られ、その地には木の十字架が佇んでいる。
>> シュタルンベルク湖公式サイト
スイス:
Schweiz, Switzerland
中央ヨーロッパの国家。位置:北緯46.82度、東経8.23度
アルプス山脈や時計産業、チョコレート、銀行業で広く知られ、永世中立国として国際的な地位を確立している。
皇妃エリザベートはスイスに滞在中、レマン湖畔において無政府主義者ルイジ・ルケーニに襲撃された。
宿泊先のボー・リヴァージュホテルに運ばれたが、心臓への傷が致命傷となり命を落とした。
また有名な漫画ゴルゴ13では、スイスが永世中立国であることから、ゴルゴ13がスイスの銀行に振り込みを依頼する。
ジュネーブ:
Genf., Geneva
スイスの西部にある国際都市。位置:北緯46.12度、東経6.09度
フランスとの国境に接しており、レマン湖の西端にある。
ジュネーブは国際連合や国際赤十字本部など、多くの国際機関が置かれている。
スイスの第2の都市で外交施設が多くあり、国際的な会議や交渉の場として、現代において重要な役割を果たしている都市。
スイスの文化や歴史、経済の中心の都市の一つ。
スペイン:
Spanien, España, Spain
近代に残る君主国の一つ。位置:北緯40.00度、西経4.00度
長い歴史と芸術や建築、文学や音楽などの豊かな文化を持ち、特に大航海時代には世界的に影響を与えた。
スペイン・ハプスブルク家として16世紀〜17世紀に統治し、断絶するまではオーストリア・ハプスブルク家と分かれ、密接に関係していた。
皇妃エリザベートは、転地療養でスペインのマデイラ島(現在はポルトガル領)へ赴き、自信を取り戻すとともに、生涯のほとんどを流浪の旅に費やした。
1975年に絶対君主制から立憲君主制に移行。
闘牛やサッカーは人気で、観光地としては有名な世界遺産であるサグラダ・ファミリアがそびえ立つ。
アントニオ・ガウディの設計では、サグラダ・ファミリアは完成まで長くかかると言われていたが、ついに完成予定が2026年とされた。
首都はマドリード、公用語はスペイン語(カスティーリャ語)で、日本でもお馴染みのカステラの名は、カスティーリャ語やカスティーリャ地方由来とされる。
マデイラ諸島はこちら
た行
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た行の名称
帝国:
Reich, Empire
帝国とは、一つの国家または支配者が、多様な地域や多民族を統治する政治形態を指す。
通常は、一人の君主(皇帝や王)が権力を握っており、その権威は広範囲に及ぶ。
古代から現代に至るまで、さまざまな帝国が歴史上に登場しており、それぞれが強力な軍事力や外交、文化的影響力によって広大な領土を支配した。
有名な帝国には、ローマ帝国、神聖ローマ帝国、オスマン帝国、大英帝国などがあり、これらの帝国は世界史において多大な影響を与えたとされる。
帝国の特徴として、中央集権的な支配と異なる文化や民族の統治が挙げられ、時には多様な地域間の摩擦や統治の困難が伴った。
オーストリア帝国も同じような問題を抱えていた。
大公女:
Erzherzogin, Archduchess
大公女とは、大公(Erzherzog)の娘や、大公妃の称号を持つ女性を指す。
特にハプスブルク家などで用いられ、オーストリアや神聖ローマ帝国における皇族の女性に与えられた称号。
大公女は、単なる王女や公女よりも高い身分を示し、特にハプスブルク家の一員として、国際的な婚姻や政治的な役割を担ってきたとされる。
彼女たちは外交や宮廷での重要な存在であり、結婚を通じて国際関係を築くことも多くあった。
いわゆる政略結婚である。
マリー・アントワネットや皇妃エリザベートの娘たちも「大公女」を名乗った。
尊称は「殿下」。
大公妃:
Erzherzogin, Archduchess
大公妃とは、大公(Erzherzog)の妻に与えられる称号を指す。
特に、ハプスブルク家をはじめとするオーストリアや神聖ローマ帝国の皇族の中で使用された。
大公妃は、夫である大公と同様に高い身分を示す称号であり、彼女たちは外交や宮廷での重要な役割を担ってきた。
大公妃は、しばしば政略結婚を通じて、他国との国際関係を築き、皇室や国家の繁栄に寄与する存在とされている。
フランツ・ヨーゼフ1世の母ゾフィー大公妃がその例であり、彼女はさらに宮廷の実験までも握っていた。
戴冠式:
Krönung, Coronation
戴冠式は、王や皇帝などの君主が正式に即位し、冠を授けられる儀式を指す。
この儀式は、君主の地位を正式に認め、権威を象徴するものである。
多くの場合、宗教的な祝福や神聖な儀式が伴い、国民や貴族が見守る中で行われた。
歴史上、有名な戴冠式には、神聖ローマ帝国の皇帝やイギリス王室の戴冠式(帝冠)が含まれる。
フランスのナポレオンが自らの手で冠を戴いたことも有名であり、それは形として民主主義を表したとされる。戴冠式は、君主の支配権を確認し、国民や支配者層との結束を示す場としての重要な役割を果たした。
皇妃エリザベートは嫁いだ際にオーストリア皇后となったが、その後オーストリア=ハンガリー二重帝国(アウスグライヒ)によって、フランツ・ヨーゼフ1世と共にハンガリー王妃として戴冠式に臨んだ。
ドゥカート/ドゥカーテン:
Dukat, Ducat/Dukaten, Ducats
様々な国で使用された金貨。主に貴族や国家間の大きな取引に使用されたとされる。
ドゥカーテン(Dukaten, Ducats)はドゥカートの複数形。
1ドゥカートは約3.5グラムの金に相当し、オーストリア通貨のグルデン(銀)よりもはるかに高価だった。
エリザベートは夫婦財産契約のモルゲンガーべ(後朝贈与)として、1万2,000ドゥカーテンをフランツ・ヨーゼフ1世からもらっている。
現在に換算すると、なんとユーロで約231万ユーロ、日本円にして約3億267万円もの額であった。
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ドイツ:
Deutschland, Germany
ドイツは、中央ヨーロッパに位置する国家で、歴史的に多くの文化的、政治的影響を与えてきた国。
位置:北緯 51.1657度、東経 10.4515度 首都はベルリン。
現在のドイツ連邦共和国(Bundesrepublik Deutschland)は、16の連邦州から構成されている。
歴史的に、神聖ローマ帝国(962年〜1806年)の中心であり、19世紀後半にプロイセン王国主導でドイツ帝国が成立した。
ドイツは第一次世界大戦、第二次世界大戦を経て、大敗を喫しながらも、現代では欧州連合(EU)の重要な一員となり、経済的にも大きな影響力を持つ。
音楽、哲学、科学など、さまざまな分野で世界に貢献してきたとされる。
著名な作曲家や思想家、科学者を輩出しており、文化や学術の面でもその影響は計り知れない。
気質は日本人によく似ていると言われ、真面目。
トスカーナ:
Toskana, Toscana, Tuscany
トスカーナは、イタリア中部に位置する地方で、古代ローマ時代にはエトルリアの一部として知られている。
位置:北緯 43.7711度、東経 11.2486度 首府はフィレンツェ。
特にその美しい風景、豊かな文化、芸術的な遺産で有名で、ルネサンスの発祥地としても知られ、ミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ガリレオなどの著名な芸術家や学者が活躍した。
特にダビデ像は有名。
トスカーナ地方は、ワインの産地としても世界的に有名であり、キアンティやブルネッロ・ディ・モンタルチーノなど、高品質なワインが生産されている。
文化と自然の調和が取れた地域であり、多くの歴史的建造物や美術館が存在し、観光地としても人気が高い。
チェコ:
Tschechien, Czech Republic
チェコは、中央ヨーロッパに位置する内陸国。位置:北緯 49.8175度、東経 15.4730度
首都はプラハ。
歴史的に、チェコはボヘミアとして知られており、神聖ローマ帝国やハプスブルク帝国領の一部だった。
チェコは長い歴史を持ち、特に中世において文化や経済の中心地として栄えた。
現代のチェコは、1993年にチェコスロバキアが分離して独立した国であり、欧州連合(EU)加盟国でもある。
チェコは、特にプラハ城やカレル橋、聖ヴィート大聖堂などの歴史的建造物が有名で、多くの観光客で賑わっている。
また、ビールやガラス製品の産地としても世界的に知られている。
オーストリア=ハンガリー二重帝国時、フランツ・フェルディナント大公夫妻がボスニアのセルビアで襲撃され亡くなり、これにより第一次世界大戦への引き金になった。
な行
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な行の名称
名付け親:
Pate (男性), Patin (女性)
Godparent(総称), Godfather(男性), Godmother(女性)
名付け親は、洗礼や誕生の際に子どもの保護者として選ばれ、その子どもの宗教的および道徳的な成長を助ける役割を担う重要な人物。
特にキリスト教においては、洗礼の際に名付け親が霊的な指導者として選ばれ、子どもの信仰教育を支える役割を果たす。
名付け親は子どもとの絆を大切にし、親に代わる立場で助言や支援を行うことが期待される。
また、名付け親は洗礼式の場で子どもの名前を宣言することもあり、名付けの儀式に重要な役割を果たす。
皇妃エリザベートの名付け親はプロイセン王妃エリザベート(エリーゼ)であり、名前も「エリザベート」とされた。
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な行の地名
ニンフェンブルク城:
Schloss Nymphenburg, Nymphenburg Palace
ニンフェンブルク城は、ドイツのバイエルン州、ミュンヘンに位置するバロック様式の宮殿。
位置:北緯 48.1580度、東経 11.5035度
バイエルン王家の夏の離宮として建設され、1664年に建設が始まり、ルートヴィヒ2世など歴代のバイエルン王家が使用した宮殿として知られる。
広大な庭園や運河が特徴で、豪華な内装とともに訪れる観光客を魅了してやまない。
ニンフェンブルク城は、バイエルン王家の王族が生まれた場所でもあり、歴史的な価値が高い宮殿としても知られている。
ルートヴィヒ2世など、バイエルン王族たち誕生の地としても名高い。
は行
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は行の名称
ハプスブルク家:
Haus Habsburg, House of Habsburg
ハプスブルク家は、ヨーロッパ史において最も影響力のある王朝の一つ。
何世紀にもわたって神聖ローマ帝国、オーストリア帝国、スペイン帝国、およびその他のヨーロッパの王国を支配していた。
起源はスイスのハビヒツブルク城にあり、ハビヒツブルクがハプスブルクになったとされる。
13世紀には神聖ローマ皇帝の地位を得て、以後、ヨーロッパ政治における中心的な役割を果たした。
最初の君主に選ばれたのがルドルフ1世。マイヤーリング事件で亡くなったルドルフ皇太子はルドルフ1世から付けられたとされる。
オーストリア帝国や後のオーストリア=ハンガリー二重帝国を長く支配し、その皇族たちは国際的な政略結婚を通じてヨーロッパの広範な地域に影響力を持つようになった。
ハプスブルク家はフランツ・ヨーゼフ1世やマリア・テレジアなど、歴史に名を残す人物を輩出し、政治的、文化的に大きな足跡を残した。
またそのフランツ・ヨーゼフ1世やマリア・テレジアの両君主は、政略結婚でありながら恋愛結婚である。
現存するハビヒツブルク城は、北緯47.4626度、東経8.1833度に位置する。
ハプスブルク=ロートリンゲン:
Haus Habsburg-Lothringen, House of Habsburg-Lorraine
ハプスブルク=ロートリンゲンとは、ハプスブルク家とロレーヌ家が結びついて誕生した王朝を指す。
18世紀以降のハプスブルク家の正式名称とされる。
マリア・テレジアがハプスブルク家最後の嫡系としてフランツ・シュテファン(フランツ1世)と結婚したことで、ロレーヌ家との合併が成立し、ハプスブルク=ロートリンゲン家として、約700年、1918年まで続いた。
ハプスブルク=ロートリンゲン家は、オーストリア皇帝や神聖ローマ皇帝を輩出し、後のオーストリア=ハンガリー二重帝国を支配した。
ハプスブルク=ロートリンゲン家系は、ハプスブルク家の特権を手放したことにより現在も続いており、ヨーロッパにおける貴族の血筋として残っている。
皇妃エリザベートの娘マリー・ヴァレリーがその良い例である。
伯爵:
Graf, Count
伯爵とは、君主制のもとで爵位を与えられた貴族の称号の一つ。
公爵、侯爵に次ぐ地位にあり、領地経営や政治の場で大きな役割を果たし、国王や皇帝に支える立場であった。
世襲貴族の称号でもあり、そのため政治的な影響力を持っていた。
古代ローマ帝国の「伯(comes)」という役職が起源とされ、ドイツ語圏では「グラーフ (Graf)」と呼ばれ、英語圏では「カウント (Count)」、フランス語圏でComte(コント)と呼ばれる。
伯爵夫人は、ドイツ語では「グレーフィン(Gräfin)」、英語では「カウンテス(Countess)」など。
中世ヨーロッパでは、伯爵は軍事的、行政的な役割を果たし、領地の統治や国防に関わることが多かった。
現代では、多くの国で貴族制度は廃止されているが、イギリスなど一部の国では称号として残っている。
イギリスドラマ・映画「ダウントン・アビー」では、1900年代の伯爵の生活、また貴族の生活様式、仕える者の毎日までがよく分かりオススメの作品。
尊称は「殿下」。
プラグマティッシェ・ザンクティオン:
Pragmatische Sanktion, Pragmatic Sanction
プラグマティッシェ・ザンクティオン(Pragmatische Sanktion)は、神聖ローマ帝国およびハプスブルク帝国において、君主が家法を定めた重要な法令。
女性の権利を認めるという、当時としては画期的な内容を含んだ法令だった。
特に有名なのは、1713年に神聖ローマ皇帝カール6世によって発布されたプラグマティッシェ・ザンクティオンである。
この法令によって、カール6世はハプスブルク家の領地を分割させず、男子がいない場合の女子にも領土継承を認めた。
これにより、名君マリア・テレジアが歴史に名を残すことになったが、カール6世が1740年に死去すると、プロイセンなどがこの法令を無視。
オーストリア継承戦争(1740-1748)が勃発し、マリア・テレジアは苦しい戦いを余儀なくされる。
結果としてマリア・テレジアはハプスブルク家の大部分の領土を守り抜いたが、プラグマティッシェ・ザンクティオンはヨーロッパ大陸全体を争いに巻き込む火種ともなった。
この法令はハプスブルク家の家督相続や領地継承を変え、後のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の即位にも影響したとされる。
は行の人物名
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は行の地名
ポッセンホーフェン:
Possenhofen, Possenhofen
ポッセンホーフェンは、バイエルン州にある小さな村。位置:北緯 47.9477度、東経 11.2911度
そこにあるポッセンホーフェン城は現在は個人所有の建物であるが、皇妃エリザベートの実家ヴィッテルスバッハ家が夏の別荘としていたことで知られる。
シュタルンベルク湖の近くに位置しており、自然が豊かな環境にある村で、皇妃エリザベートはこのポッセンホーフェンを心から愛していたと言われる。
シシィとしての幼少期はこのポッセンホーフェンにおいて乗馬や水泳などで自然に親しみ、慈愛の心を育んだとされる。
またポッセンホーフェン駅には皇妃エリザベートの博物館があり、当時のシシィを感じることができる。
>> ポッセンホーフェン駅・皇妃エリザベート博物館公式サイト
ポッセンホーフェンの場所は下記の地図をどうぞ。
バイエルン:
Bayern, Bavaria
バイエルンは、ドイツ南部に位置する連邦州。位置:北緯 48.7904度、東経 11.4979度
首府はミュンヘン。王国であった時代、皇妃エリザベートの故国でもあった。
面積も人口も多く華やかで、ドイツで最も重要な州の一つ。
バイエルンはバイエルン王国だったこともあり、独自の文化や伝統を持つ。特にビール、皇太子の婚礼を祝ったことが起源とされるオクトーバーフェスト(ミュンヘンで行われるビールの祭り)が有名。
自然に囲まれたアルプス山脈は素晴らしい風景で、皇妃エリザベートも父マクシミリアン・ヨーゼフ公爵とよく出かけたと言われる。
ドイツ連邦州であるが、過去にはバイエルン王国として存在し、フランツ・ヨーゼフ1世の母ゾフィー大公妃やエリザベートの母ルドヴィカの父であるマクシミリアン1世ヨーゼフが初代国王として君臨した。
代々大学建設や芸術の発展などに力を入れ、皇妃エリザベートのいとこ同士の子どもであったバイエルン王ルートヴィヒ2世によるヘレンキームゼー城、リンダーホーフ城、そしてノイシュバンシュタイン城は、現代において非常に人気の高い観光地となっており、2025年夏にはユネスコ世界遺産リストへの登録が期待されている。
またノイシュバンシュタイン城からもその美しく可愛らしい姿をうかがい知れるホーエンシュヴァンガウ城もルートヴィヒ2世の夏の離宮として知られる。
バイエルンの文化的な影響は、今もヨーロッパ全体に及んでいる。
ヘレンキームゼー城の地図はこちらからどうぞ。
リンダーホーフ城の地図はこちらからどうぞ。
ノイシュバンシュタイン城の地図はこちらからどうぞ。
ホーエンシュヴァンガウ城の地図はこちらからどうぞ。
バート・イシュル:
Bad Ischl
バート・イシュル(Bad Ischl)は、オーストリアのオーバーエスターライヒ州に位置する温泉街。
位置:北緯 47.7119度、東経 13.6216度
塩泉の温泉として知られ、フランツ・ヨーゼフ1世の母ゾフィー大公妃が訪れ、フランツ・ヨーゼフ1世を授かったとされる。
またそのフランツ・ヨーゼフ1世が皇妃エリザベートを見初め、婚約したのも、このバート・イシュルであった。
婚約を祝い、ゾフィー大公妃がバート・イシュルの地に家を買い、二人にプレゼントしたのが、後のカイザー・ヴィラである。
皇妃エリザベートとフランツ・ヨーゼフ1世も、この地を気に入り、夏の離宮となった。
またバート・イシュルは文化的にも豊かで、音楽家ヨハン・シュトラウス2世や作曲家フランツ・レハールがこの地で過ごしたことでも知られる。
エリザベートの死後は娘マリー・ヴァレリーがこの地を相続し、後にハプスブルク家の特権を放棄することで、カイザー・ヴィラを奪われることもなかった。
現在もエリザベート、マリー・ヴァレリーの子孫が住んでいる。
詳しくはシシィ伝をご覧ください。
バート・イシュルの地図はこちらからどうぞ。
ハンガリー:
Ungarn, Magyarország, Hungary
ハンガリーは、中央ヨーロッパに位置する内陸国。位置:北緯 47.1625度、東経 19.5033度
首都はブダペスト。
ハンガリーは長い歴史を持ち、オーストリア帝国の統治国とされたいたが、1867年のアウスグライヒ(妥協)により、オーストリア=ハンガリー二重帝国が成立。自治権を持った。
これには皇妃エリザベートの働きが大きく、フランツ・ヨーゼフ1世と共にハンガリー王、ハンガリー王妃として戴冠式に臨んだが、ハンガリー国民には喜ばれた。
それは皇妃エリザベートはハンガリーの文化や人々を愛し共感し、政治的自治を支持したことが理由とされている。そのため現在でもハンガリー王妃エリザベートとして非常に人気が高い。
その後エリザベートはハンガリーよりゲデレー宮殿を贈られ、非常に愛しよく滞在した。
また自分の手で育てる初めての子どもである娘マリー・ヴァレリーも、ハンガリーのブダ王宮で生まれ、母エリザベートと同じくハンガリーを愛したとされる。
歴史的な建築物や豊かな文化を持つハンガリーは、観光地としても人気があり、首都ブダペストの美しい街並み、オーストリアから続くドナウ川が印象的。
皇妃エリザベートを巡る旅の終着点としてもオススメ。
プロイセン:
Preußen, Prussia
プロイセンは、ヨーロッパの歴史的な国家であった。位置:緯度:52.52度、経度:13.405度
首都はベルリン。
特に18世紀から19世紀にかけて非常に強い影響力を持ち、ドイツ統一した後に第一次世界大戦後に消滅したため、現在は存在しない。
プロイセンは元々ドイツ北東部と現在のポーランドに位置していたが、18世紀には軍事力を背景に領土を拡大し、神聖ローマ帝国やドイツ帝国の重要な構成国となった。
フリードリヒ2世(大王)などの君主に率いられ、効率的な行政システムや強力な軍隊で有名であった。
ドイツ、プロイセンはオーストリアにとって覇権を争う強力なライバルであり、ゾフィー大公妃は息子フランツ・ヨーゼフ1世の結婚を通じその影響力を抑えようと画策したが、秘密裏に行われた交渉は実らなかった。
その後、エリザベートがフランツ・ヨーゼフ1世に嫁ぐこととなるが、フランツ・ヨーゼフ1世の願いを聞き入れた背景には、バイエルン王国の公女であることが良かったとされる。
事実、ゾフィー大公妃は、花嫁が姉ヘレーネであってもエリザベートであっても良かったと考えていた。
またバイエルン王国とは政略結婚で繋がりがあり、ゾフィー大公妃の姉エリーゼはプロイセンに嫁いでいる。
当時のヨーロッパ情勢は非常に複雑であったが、プロイセンの文化や軍事的伝統は、ドイツ全体に大きな影響を与え続けた。
ブダペスト:
Budapest, Budapest, Budapest
ブダペストはハンガリーの首都。位置:北緯 47.4979度、東経 19.0402度。
中央ヨーロッパの美しい都市として知られる。
ドナウ川が東西に街を分け、片方は歴史的なブダ王宮が建つブダ地区。もう片方は、近代的なペスト地区で構成されている。
古代ローマ時代から栄えてきた地域であり、ヨーロッパにおける要所であった。
またオーストリア=ハンガリー二重帝国時代には、政治や文化の中心地として発展した。
皇妃エリザベートとの関わりが深く、ブダペストでは非常に人気があったとされ、今も「王妃エリザベート」として名高い。
他にもセーチェーニ温泉やエルジェーベト展望台(エリザベート展望台)、歴史的な建築物、カフェ文化でも有名で、観光地としても広く知られている。
現在でもヨーロッパの文化、経済、そして政治の重要な拠点の一つとなっている。
ブダペストの地図はこちらをどうぞ。
ボヘミア:
Böhmen, Bohemia
ボヘミアは、現在のチェコ共和国西部に位置する歴史的な地域である。
位置:北緯 49.75度、東経 15.5度 首都はプラハ。
中世から近代にわたりボヘミア王国として独立した国。
神聖ローマ帝国やハプスブルク帝国の重要な地域でもあり、首都プラハを中心とし、文化と政治の中心地として繁栄した。
16世紀以降、ハプスブルク家の領土となり、オーストリア帝国、後にオーストリア=ハンガリー二重帝国の一部となった。
現在はチェコ共和国の一部として知られるが、歴史的には多様な文化の交わる地域として重要な役割をはたてきた。
ボヘミアは特にガラス製品やビールの生産で世界的に知られ、ヨーロッパ文化、芸術、そして政治に大きな影響を与えた地域でもある。
ホーフブルク宮殿:
Hofburg, Hofburg Palace
ホーフブルク宮殿は、オーストリア・ウィーンに位置する壮大な宮殿で、ヨーロッパ建築史の名作として知られる。
位置:北緯 48.2064度、東経 16.3602度
ウィーンを彩る歴史的な宮殿で、美しいバロック、ゴシック、ルネサンスやロココ様式が訪れた者の目を潤す。
13世紀末から約600年以上にわたり、ハプスブルク家の王宮であった。夏はシェーンブルン宮殿が使用された。
現在はオーストリアの大統領官邸であり、多くの博物館や施設が含まれる。
宮殿内ではハプスブルク家の歴史と文化の世界に誘われ、皇妃エリザベートに関する「シシィミュージアム(博物館)」は、エリザベートファンには垂涎もの。
ま行
ま行の名称、人物名、地名です。
ま行の名称
マイヤーリング事件:
Mayerling-Vorfall、Mayerling Incident
マイヤーリング事件は、1889年1月30日、オーストリア・ハプスブルク家の皇太子ルドルフが、愛人マリー・ヴェッツェラ男爵令嬢とともに情死した事件。
オーストリア・ウィーン近郊のマイヤーリングにあるルドルフ皇太子の狩猟館で起きた。
ハプスブルク家が早い収束を図ったため、まだまだ謎の部分が多い。
皇后ツィタが後に暗殺を示唆したが、最近発見されたマリー・ヴェッツェラ男爵令嬢の手紙により、心中であったと考えられている。
この事件はハプスブルク家のみならず、オーストリア=ハンガリー二重帝国、さらにヨーロッパ全体に衝撃を与えた大事件であった。
皇妃エリザベートはショックのあまり葬儀を欠席。自責の念にかられ、以降はほぼ黒い服(喪服)で生涯を過ごした。
またハプスブルク家は唯一の後継者を失ったため、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の甥フランツ・フェルディナント大公が次の後継者となった。
しかしフランツ・フェルディナント大公も後にサラエボ事件で命を落とし、第一次世界大戦の引き金となった。
モルゲンガーベ(後朝贈与):
Morgengabe, Morning Gift
モルゲンガーべ(後朝贈与)は、中世ヨーロッパにおける婚姻の古い慣習で、夫から妻への贈与を指す。
夫婦財産契約にあるもので、通常は婚礼後、妻の個人財産となった。
1483年のザルツブルクの事例では、ウィーンの婚姻法では市民の娘に対して、持参金やモルゲンガーべが規定されていた。
エリザベートの場合は、完全な夫婦として成立した際にもらえた贈与で、フランツ・ヨーゼフ1世はこれに1万2,000ドゥカーテンもの額(日本円で約3億267万円)を贈ったとされる。
当時の貴族社会では重要な慣習であったが、エリザベートが受け取った金額は、通常の規模をはるかに上回るものであった。
フランツ・ヨーゼフ1世がエリザベートに表した愛のエピソードとも言えるだろう。
ま行の人物名
マリー・アントワネット:
Marie Antoinette, Marie-Antoinette
マリー・アントワネットは、フランス国王ルイ16世の王妃として知られる女性。
フランス革命において処刑され悲劇のフランス王妃として歴史に名を刻んだ、オーストリア大公女である。
オーストリア皇帝フランツ1世と皇后マリア・テレジアの一番末の娘として生まれ、わずか14歳でフランスに嫁ぎ、ルイ15世の崩御に伴いフランス王妃に即位。
王妃として華やかな生活を送っていたが、財政難であったフランスでの贅沢な生活様式や特権への反発を招くこととなる。
実際フランスの財政難はルイ15世が原因とされているが、国民が募った不満は、美しく着飾っていた嫁いだ当時のマリー・アントワネットの姿を想起させた。
さらに「パンがなければお菓子を食べればいい」といった発言(後にポンパドール夫人の発言だったと考えられる)が、マリー・アントワネットをフランス革命における批判の標的となる。
フランス革命の激動の嵐の中で、ヴァレンヌ逃亡が仇となり、夫ルイ16世のあと裁判の後に処刑された。
マリー・アントワネットは、この時代に生まれたことが悲劇であり、華やかに咲くバラが突然の嵐に見舞われ散ったものと同じである。
またオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の大叔母がこのマリー・アントワネットであり、皇妃エリザベートとの子孫が今も現代に生きている。
日本の池田理代子氏が描いた漫画「ベルサイユのばら」に人気に火がつき、宝塚歌劇団により舞台化、またテレビアニメ化され、後にヨーロッパ地方でも「レディ・オスカル」として大人気作品となった。
マリー・アントワネットの生涯を知るに相応しい「ベルサイユのばら」は、2025年にはリメイクされたアニメ「ベルサイユのばら」として、時を経て新たな劇場版アニメとして生まれ変わることになっている。
マリー・ヴェッツェラ男爵令嬢:
Baronesse Mary Vetsera, Baroness Mary Vetsera
マリー・ヴェッツェラ男爵令嬢は、オーストリア・ハプスブルク家の皇太子ルドルフとマイヤーリングの狩猟館においてともに情死したとされる女性。(マイヤーリング事件)
元々マリー・ヴェッツェラは、ルドルフ皇太子を一目見た時から熱烈な想いで見ていた。
皇妃エリザベートの姪であるマリー・ラリッシュ伯爵夫人が偶然にもマリー・ヴェッツェラ男爵令嬢の母と懇意になったことで、マリー・ヴェッツェラ男爵令嬢の想いが叶うこととなる。
ルドルフ皇太子にはミッツィ・カスパーという本気で愛した愛人がいたため、当初はミッツィ・カスパーをルドルフ皇太子が連れ添いたかったとされる。
しかしミッツィ・カスパーに断られたルドルフ皇太子は、(ルドルフ皇太子にとって)仮初の愛を誓ったマリー・ヴェッツェラと共に悲劇のマイヤーリング事件へと向かうこととなる。
マリー・ラリッシュ伯爵夫人に導かれた後、ルドルフ皇太子と共にマイヤーリングで哀しい最期を遂げたとされるが、マリー・ヴェッツェラ男爵令嬢の手には、おそらくルドルフ皇太子からバラが手向けられてあったとされる。
事件発覚後、ハプスブルク家が詳細を隠そうと図ったため、マリー・ヴェッツェラ男爵令嬢はすぐに埋葬された。そのため母であるヴェッツェラ男爵夫人もしばらくは娘の亡骸にすら会えなかったとされる。
墓荒らしにあったりと、マリー・ヴェッツェラ男爵令嬢の死後は散々であるが、彼女の残した数々の手紙や遺品からは、ルドルフ皇太子への愛や死にゆく希望が判明している。
またマリー・ヴェッツェラの「マリー」は、通常の「Marie」とは違い、英語名の「Mary」と綴る。これを彼女が自身のアイデンティティと感じ、自分の写真にサインするほど、大いに気に入っていたと言う。
真相は闇の中だが、マリー・ヴェッツェラ男爵令嬢は儚くもどこか幸せであったかもしれない。
マイヤーリング狩猟館は、1889年に皇帝フランツ・ヨーゼフ1世によって、二人を追悼するマイヤーリング修道院に建て替えられ、現在でもルドルフ皇太子とマリー・ヴェッツェラ男爵令嬢に想いを馳せることができる。
マリア・テレジア:
Maria Theresia, Maria Theresa
マリア・テレジアは、18世紀にハプスブルク家の神聖ローマ帝国に君臨した唯一の女性君主。
オーストリア大公、ハンガリー王、ボヘミア王などの称号を多数持ち、ヨーロッパで他国を凌駕する影響力を持つ君主であった。
父カール6世の制定した「プラグマティッシェ・ザンクティオン」により、男子がいない場合でもハプスブルク家の女子による継承を認められ、オーストリア継承戦争を経て即位した。
ハプスブルク家において珍しく恋愛結婚した夫はフランツ1世で、マリア・テレジア本人は公式には女性の大公であり、皇帝(エンペラー)とはみなされなかった。
統治にあって主な成果は、軍事改革、教育の普及、行政制度の改善など幅広く、これらはハプスブルク帝国の礎となり、後世へ多大な影響を及ぼした。
君主でありながらも16人もの子どもを持ち、その中でも末娘フランス王妃マリー・アントワネットやヨーゼフ2世(神聖ローマ帝国皇帝)は有名である。
オーストリアの政治、文化、経済を大きく発展させ、「オーストリアの母」「女帝(実際は女帝ではない)」としても名高く、オーストリアを近代化に向かわせた偉大な統治者として、現代に至るまで国民から尊敬と愛情を集め続けている。
ハプスブルク家の歴代の人物が眠るカイザークルフトでは、マリア・テレジアとフランツ1世の眠る石棺の装飾は、いかにマリア・テレジアが優れた統治者であったかを物語っている。
フランツ・ヨーゼフ1世はマリア・テレジアの直系の子孫であり、自身もマリア・テレジアの理想と統治に大きく影響を受け、同じような統治を目指した。
メッテルニヒ:
Klemens Wenzel Lothar von Metternich,
Klemens von Metternich
メッテルニヒは、19世紀初頭のオーストリア帝国における、有力な外交官、政治家であり、ウィーン会議を仕切ったヨーロッパ外交の指導者として知られる。
オーストリア帝国では外務大臣および宰相として、ナポレオン戦争後のヨーロッパの秩序を再建するために尽力した。
彼の名前が冠された「メッテルニヒ体制」は、ウィーン会議でメッテルニヒが提唱した保守的な秩序維持政策を指す。
メッテルニヒは君主制の維持、保守主義、そして平和的な国際関係を重視するヨーロッパの体制を築き上げた。
しかし、ヨーロッパ各地で革命運動が広がり、自由主義と各国の独立運動の台頭に直面し、1848年に勃発した各地の革命により失脚。イギリスに亡命を余儀なくされた。
その後ウィーンに戻るも、過去の日の目を見ることはなく亡くなった。
ま行の地名
マデイラ島:
Madeira, Madeira, Madeira
マデイラ島は、オルトガル領の大西洋に浮かぶ美しい島。位置:北緯 32.7607度、西経 16.9595度
観光地としても人気があり、特に温暖な気候、日常を忘れるほどの美しい自然、海岸線、美しい花々が咲き誇る。
ポルトガル本土からおよそ1,000km離れた位置にありながら、訪れる人が絶えない人気の観光地として知られる。
皇妃エリザベートの最初の転地療養先であり、マデイラ島からも様々な療養地に移りながら、自信を回復させていった。
歴史的にはポルトガルの探検家によって発見され、以後ポルトガルの植民地として発展した。
またワインの産地としても有名であり、「マデイラワイン」は世界中でワイン愛好家などに愛されている。
マデイラ島(マデイラ諸島)はこちらをどうぞ。
マーチャーシュ聖堂:
Matthiaskirche, Mátyás-templom,
Matthias Church
マーチャーシュ聖堂は、ブダペストのブダ地区に位置する歴史的なカトリック教会。
位置:北緯47.5015度、東経19.0346度
ブダ王宮(ブダ城)に近く、ハンガリーの重要な観光スポットで、正式には「聖母マリア教会」とも呼ばれるが、ハンガリー王マーチャーシュ1世(Mátyás király)がこの聖堂の増改築に尽力したため、「マーチャーシュ聖堂」として国民に親しまれている。
創建は13世紀と歴史が深いゴシック様式の建築で、何度もの戦争と修復を経て現在の姿となった。
特に華麗なタイル屋根や美しいフレスコ画が特徴で、内装の細部までが芸術的で、見たものの心が躍る。
オーストリア=ハンガリー二重帝国となった際、このマーチャーシュ聖堂において、1867年6月8日、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と皇妃エリザベートがハンガリー王、ハンガリー王妃として戴冠した。
ミュンヘン:
München, Munich
ミュンヘンは、ドイツ南部のバイエルン州の州都。位置:北緯 48.1351度、東経 11.5820度
ドイツで三番目に大きな都市で、豊かな文化と歴史を持つ街として賑わっている。
特にビール、皇太子の婚礼を祝ったことが起源とされるオクトーバーフェスト(ミュンヘンで行われるビールの祭り)が政界的に有名。
バイエルン王国の旧都でもあり、皇妃エリザベートの実家である父マクシミリアン・ヨーゼフ公爵邸があった。エリザベートはここミュンヘンからウィーンへ嫁いだ。
現在は州立博物館として公開されているミュンヘン・レジデンツ(旧バイエルン王国ヴィッテルスバッハ王家の元王宮)やニンフェンブルク城といった王宮があちこちに見られ、歴史的な建築物が人気観光名所となっている。
ミュンヘンは美術館、劇場、オペラハウスなどの文化施設が非常に充実しており、クラシック音楽やアートの発展にも大きく貢献してきた。
現在でもミュンヘン・レジデンツやニンフェンブルク城ではクラシックコンサートが催されている。
ミュンヘンはこちらからどうぞ。
マイヤーリング:
Mayerling, Mayerling
マイヤーリングは、オーストリア・ウィーンの西方、ヘルメス山脈の自然豊かな地域にある小さな村。
位置:北緯 48.0362度、東経 16.1244度
元々はオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と皇妃エリザベートの息子で、ハプスブルク家の皇太子ルドルフが狩猟用の館を持ち利用していた場所。
1889年1月30日に、ルドルフ皇太子と愛人マリー・ヴェッツェラ男爵令嬢た共に命を絶った「マイヤーリング事件」が起きた。
この事件の後、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世がこの館を修道院として再建され、現在の「マイヤーリング修道院」となった。
現在マイヤーリング修道院は、ルドルフ皇太子とマリー・ヴェッツェラ男爵令嬢を追悼する場として公開されている。
マイヤーリング事件の用語集は こちら から。
マイヤーリングの場所はこちらの地図からどうぞ。
翻訳で「マイエルリング」と表示されているかもしれないが、そこがマイヤーリングの村である。
メキシコ:
Mexiko, México, Mexico
メキシコは、北アメリカ大陸の南部に位置する国。位置:北緯 23.6345度、西経 102.5528度
アメリカ合衆国、グアテマラ、ベリーズと国境が接している。首都はメキシコシティ。
長い歴史と豊かな文化遺産で知られ、古代ではアステカ文明やマヤ文明などが栄え、その後16世紀には、スペインによる征服と植民地となった。
1821年にスペインから独立し、現在では豊かな民族と文化の多様性を誇る国となっている。
メキシコはオーストリア帝国にとって因縁めいた国でもある。
フランスのナポレオン3世の勧めで、フランツ・ヨーゼフ1世の弟フェルディナント・マクシミリアンがメキシコ皇帝として即位する。
これは皇帝の座を望んでいたフェルディナント・マクシミリアン大公と、それを疎む兄フランツ・ヨーゼフ1世の思惑が意外な形で叶った、またフェルディナント・マクシミリアンの妻シャルロッテの野心も手伝った運命だった。
しかしメキシコの反乱兵によって形勢が変わり、またアメリカから睨まれることを恐れたナポレオン3世はフランス軍をメキシコから撤退。
これにより、先にヨーロッパに助けを求めに帰った妻シャルロッテを残し、フェルディナント・マクシミリアンは処刑される。
オーストリア帝国の大公が処刑された事実はヨーロッパに轟いたが、オーストリア帝国もハンガリーの自治を認め、オーストリア=ハンガリー二重帝国が成立したところであった。
現在のメキシコは観光地としても非常に人気があり、遺跡、ビーチ、カリブ海や太平洋側のリゾート地カンクンなどが有名である。
またメキシコ料理、マリアッチ音楽、伝統的な祭り(例:死者の日)なども、世界に広く知られている。
や行
や行の名称、人物名、地名です。
や行の名称
夭折:
Früher Tod, Untimely Death
夭折(ようせつ)は、若くして亡くなること、短命を意味する。
皇妃エリザベートが生きた時代は、まだ子どもが成人するのが当たり前ではなかった。
エリザベートの娘ゾフィー大公女もまた、病により夭折している。
歴史や文学において、夭折はしばしば人々の心を揺さぶるテーマとして描かれる。
や行の人物名
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や行の地名
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ら行
ら行の名称、人物名、地名です。
ら行の名称
ロートリンゲン:
Lothringen, Lorraine
ロートリンゲン(ロレーヌ)は、現在のフランス東部に位置する歴史的な地域。
時代を経てフランスとドイツの間で支配が争われてきた。
中世はカロリング朝の分裂によって、ロタール1世の領土である「ロタリンギア」として成立し、以後「ロートリンゲン」と呼ばれるようになったとされる。
ロートリンゲンはその後、領土拡大を目指す神聖ローマ帝国やフランス王国との間でたびたび争奪の対象となり、17世紀にはフランス領として併合された。
しかし19世紀には普仏戦争を経て一時的にドイツ帝国の支配下に置かれた。
ハプスブルク家のマリア・テレジアがフランツ・シュテファンと結婚したことで、ロートリンゲン家とハプスブルク家が結びつき、「ハプスブルク=ロートリンゲン家」という新たな家系が生まれ、ロートリンゲン家は歴史的にハプスブルク家の一部となった。
「エスターライヒ」と「ロートリンゲン」で悩むが、意味は同じである。
ら行の人物名
ルイジ・ルケーニ:
Luigi Lucheni, Luccheni
ルイジ・ルケーニは、イタリア出身の無政府主義者である。
1898年にオーストリア皇妃エリザベートを暗殺した人物として知られている。
ルイジ・ルケーニは貧しい環境で育ち、その生育環境から、強い反体制的な信念を持つようになったとされる。
暗殺時、ルケーニはエリザベートが偶然スイスに滞在していることを知り、元々の標的イタリア国王ウンベルト1世、フランスの王位継承者オルレアン公フィリップとは自身の時間が合わず、予定を変更。
スイスのジュネーブ湖畔で凶行に及んだ。
エリザベートは身分を隠しての旅であったが、泊まったホテル ボー・リヴァージュでもすぐに身元が露呈し、新聞に載っていた。これをルケーニが見たものとされる。
その後、皇妃エリザベートは悲劇の皇后として歴史に名を刻むこととなるが、ルケーニ自身はエリザベートの死を知ると喜んだと言われる。
ルイジ・ルケーニは裁判で終身刑となり、11年の獄中生活ののち、自ら命を断った。
事件は演出によるミュージカル「エリザベート」とは違い、特権を持つ者であれば誰でも良かったとされ、エリザベートとは偶然の、そして必然のものであった。
ルートヴィヒ:
Ludwig, Louis
「ルートヴィヒ」とは、ヨーロッパで広く使われている名前で、多くの歴史的人物、指導者や王族、著名な人物がその名を名乗っている。
特にバイエルン王国のルートヴィヒ2世、ルートヴィヒ1世、そしてドイツ出身の作曲家ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンはよく知られている。
ミドルネームとしてもよく使われ、フランス語では「ルイ」と呼ばれる。
ルートヴィヒという名前はドイツ語圏やフランス語圏などのヨーロッパで非常に人気があり、時代や地域を選ぶことなく多くの人々に愛されてきた名前である。
ルドルフ1世:
Rudolf I, Rudolph I
ルドルフ1世は、13世紀に活躍したハプスブルク家の初代神聖ローマ皇帝。
1273年に選定権を持つ選帝侯により皇帝として選出され、ハビヒツブルク家をハプスブルク家となる礎を築き台頭に導いた人物である。
皇帝としてのルドルフ1世は、神聖ローマ帝国内での影響力を拡大し、オーストリアとシュタイアーマルクの領地を手に入れた。
現代の言葉で言えば、「適当に選んで任せたが、実はできる男だった」ということだろう。
ルドルフ1世の統治により、ハプスブルク家は後のヨーロッパの歴史で大きな役割を果たすことになり、その後何世紀にもわたって神聖ローマ帝国やオーストリア帝国を支配した。
また、マイヤーリング事件で亡くなったルドルフ皇太子の名はルドルフ1世より付けられたもので、事実上、ハプスブルク家は「ルドルフから始まりルドルフで終わった」と言えよう。
ら行の地名
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わ行
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その他
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