皇妃エリザベートの生涯と
ハプスブルク家
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悪女ではない。ゾフィー大公妃、ハプスブルク家の舵を取った唯一の「男性」

ゾフィー大公妃は、皇妃エリザベートの義母にして実の伯母です。(皇妃エリザベートの母ルドヴィカの姉がゾフィー大公妃です)身分はバイエルン王国の王女でした。

またゾフィー大公妃は、ハプスブルク家の実権を長く握っていた人物でもありました。

厳格で何よりも伝統としきたりを重んじ、ハプスブルク家の繁栄に努めていたのです。

「ハプスブルク家唯一の男性」と揶揄される、フランツ・ヨーゼフ1世の母ゾフィー大公妃。

エリザベートとの確執で有名ですが、ゾフィー大公妃もまたハプスブルク家に嫁いだ女性としての苦しみを抱えていた人物なのです。

ゾフィー大公妃の本当の姿を、ぜひご覧ください。

悪女ではない!ゾフィー大公妃、ハプスブルク家の舵を取った唯一の「男性」
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ハプスブルク家に嫁いだゾフィー大公妃の役割と悲しみ

ゾフィー大公妃の役割。それはハプスブルク家を繁栄させることである。

ゾフィー大公妃の考えの姿勢は、18世紀の華やかなハプスブルク家そのものであった。19世紀にもなって、マリア・テレジアの時代の時代を常に頭に残していたとされる。

後にこれが息子フランツ・ヨーゼフ1世に伝わり、ハプスブルク家の終焉に繋がろうとは、どうして考えられただろうか。

ゾフィー大公妃は、バイエルン王国ヴィッテルスバッハ家からハプスブルク家に嫁いだ。夫フランツ・カール大公に嫁いだ当初は、なかなか子どもに恵まれず、辛い思いをしたとされる。

だからこそゾフィー大公妃は、「どうすればハプスブルク家で生きていけるか」を真剣に、またはハプスブルク家の主人公のごとく考え抜いた女性であっただろう。

ゾフィー大公妃は懐妊するも、2回流産している。

そのため、フランツ・ヨーゼフ1世を授かった際は、宮廷という名の籠に入り、侍医の監視付きで生活していた。

全てはハプスブルク家繁栄のため、自分のため。ゾフィー大公妃の苦労が伺えるエピソードである。

その後フランツ・ヨーゼフ1世を無事に出産。

バート・イシュルの塩泉に行った後、フランツ・ヨーゼフ1世を授かったとされており、この場所は今も現存する。

フランツ・ヨーゼフの出産以降も、第二子フェルディナント・マクシミリアン、第三子カール・ルートヴィヒと続けて男子を出産し、ゾフィー大公妃は生涯では(亡くした子どもを含め)9人出産。

亡くなった子どもは4人いたとされるが、血族結婚であったことや、当時子どもが健康的に成長するのが難しい時代であったことも手伝っていたであろう。

「ナポレオン2世であるライヒシュタット公爵との愛」は噂であった可能性が高い

お堅いイメージのゾフィー大公妃だが、浮いた話がなかったわけではない。その話をする前に、時代はナポレオン・ボナパルト全盛期まで遡る。

ナポレオン2世と母マリー・ルイーズ/パブリックドメイン
ローマ王、ナポレオン2世と母マリー・ルイーゼ/パブリックドメイン1

オーストリアでは、実権を世襲的で堅実なものにしたいナポレオンに、オーストリア大公女マリー・ルイーゼが求められた。

ナポレオン率いるフランス軍から逃げ続けたハプスブルク家の姫君マリー・ルイーゼが、結果としてそのナポレオンに嫁いだのは皮肉な話である。

しかし時が過ぎ、ナポレオンとマリー・ルイーゼの息子、ローマ王、ナポレオン2世にしてライヒシュタット公爵は、ナポレオンの失脚に伴い、ゾフィー大公妃が嫁いだハプスブルク家に匿われていたのだ。

夫フランツ・カール大公は、ゾフィー大公妃にとってはつまらない夫であった。

ハプスブルク家に嫁いだからこその役割があったものの、ゾフィー大公妃は夫に退屈し、ナポレオン2世であるライヒシュタット公爵と懇意になったとされる。

これが、オーストリア宮廷においてスキャンダルな噂となった。
しかし「懇意にしていた」以上は、宮廷におけるつまらぬ噂話の一つに過ぎない。

この噂は、ゾフィー大公妃が第二子フェルディナント・マクシミリアンを身ごもっていたことから生まれたものであると推測されるが、全くの的外れである。

ゾフィー大公妃の本当の願いはこの後はっきりとする。
息子フランツ・ヨーゼフを皇帝にすることだ。

そのため頭の良いゾフィー大公妃がそのようなスキャンダルを起こすとは考えにくいのである。

またナポレオン2世にしてライヒシュタット公爵は、その後悲しくも病で若くして亡くなっている。

これはまた別の話となるだろう。

ナポレオン2世にしてライヒシュタット公爵/パブリックドメイン
ナポレオン2世にしてライヒシュタット公爵/パブリックドメイン2

息子フランツ・ヨーゼフを次期皇帝に!

息子フランツ・ヨーゼフが生まれたことで、ゾフィー大公妃はフランツ・ヨーゼフに対しては未来の皇帝としての教育を施した。

このスパルタ式に近い、いやスパルタ式をも凌駕する教育に、フランツ・ヨーゼフは耐えた。それが後の「老翁フランツ・ヨーゼフ1世」の礎となったことは間違いない。

貴族の女性でありながら、そして母でありながら、ゾフィー大公妃の政治的手腕はハプスブルク家を支えていたことも関係していた。

フランツ・ヨーゼフ1世を抱えようとしているゾフィー大公妃
フランツ・ヨーゼフ1世を抱えようとしているゾフィー大公妃/パブリックドメイン3

悲しいことにゾフィー大公妃は、夫フランツ・カール大公には最初から期待していなかったと言われている。

そしてハプスブルク家に嫁いだ者の役目を終えると、ゾフィー大公妃の野心が首をもたげたのだ。

「息子フランツィ(フランツ・ヨーゼフの愛称)を次の皇帝に!」

ハプスブルク家を囲む世界事情はとても複雑であった。

ハプスブルク家の更なる繁栄を何よりも願ったゾフィー大公妃は、「ゾフィー大公妃派」「メッテルニヒ派」として、政治的な考え方で対立していた宰相メッテルニヒとも思いが重なっていく。

そのためには現皇帝であるフェルディナント1世に、息子フランツ・ヨーゼフが成長するまで持ち堪えてもらわねばならない。

フェルディナント1世が結婚したことも心配の一つとなった。
とても結婚できるとは思っていなかったが、結婚したとなるとフェルディナント1世に子どもが生まれるかもしれない。

世襲である。

それでもなお願わねばならなかった。フェルディナント1世は病弱であったため、フランツ・ヨーゼフが成人するまで帝位についていてもらわなければ困るのだ。

ゾフィー大公妃は賭けに出たと言っても過言ではないだろう。

ゾフィー大公妃、夫フランツ・カール大公を説得する

何度も述べている通り、ゾフィー大公妃にとって、夫フランツ・カールは面白い男ではなかった。

ゾフィー大公妃が結婚してから退屈だったのも、何度も述べた通りである。

しかしフランツ・ヨーゼフを懐妊し出産すると、ゾフィー大公妃は権力を持ち始め、忘れかけていた野心を取り戻したのだ。

ゾフィー大公妃の密かな夢は、皇后になることであった。
しかし息子を皇帝にできたら、なんと素晴らしいことか!

ゾフィー大公妃は息子フランツ・ヨーゼフに帝王学を学ばせることに決め、息子を皇帝へ押し上げる計画を立てた。

しかし夫フランツ・カールは、皇位継承権放棄を拒否した。

信じられない。無能な夫が、まさか皇位継承権にこだわるとは!

ゾフィー大公妃はイライラしたであろう。
なんとしてでも、皇位継承権放棄にサインをさせねば!

ゾフィー大公妃は夫に粘り強く説得を続けた。

そしてついには病弱であったフェルディナント1世の次の皇帝の地位を、夫フランツ・カール大公ではなく、息子フランツ・ヨーゼフ1世に継がせることに成功するのである。

時は来た。
華やかではなかった。しかし確かにオルミュッツで、粛々と譲位は成された。

1848年12月2日、フランツ・ヨーゼフ1世即位。

それはゾフィー大公妃の願いが叶った瞬間であった。

完璧な皇后を探せ!ゾフィー大公妃の「秘密の使命」

「次は皇后を選ばねばならない、しかも完璧な皇后を!」

ゾフィー大公妃は、実際にはだいぶ以前から息子フランツ・ヨーゼフの妃を探していた。

有名な皇后候補は、プロイセンにいたマリア・アンナである。

実際に息子フランツ・ヨーゼフを連れて二人を合わせ、フランツ・ヨーゼフもまんざらではない様子であった。

政治的に考え、ドイツとの連携をも画策するゾフィー大公妃にとっては、願ってもいない皇后候補だった。

しかし何といっても、相手はプロイセンの娘。しかもマリア・アンナには極秘のうちに結婚相手が決まっていたことが大きく、プロイセンに名を轟かせるビスマルクの大反対もあった。

プロイセンに嫁いでいた実の姉エリザベート(エリーゼ)王妃に懇願するも叶わず、マリア・アンナを皇后に迎えることは諦めざるを得なかった。

プロイセン王女マリア・アンナ/パブリックドメイン
プロイセン王女マリア・アンナ/パブリックドメイン4
へレーネ・カロリーネ・タクシス侯爵夫人
へレーネ・カロリーネ・タクシス侯爵夫人/パブリックドメイン

とにかくゾフィー大公妃はフランツ・ヨーゼフ1世のために、あるいは自分のために、完璧な妃を探し続けたのである。

長くさまざまな皇后候補を探し続けた。

その熱量でついに白羽の矢が立ったのが、ゾフィー大公妃の妹であり、バイエルン公家に嫁いだルドヴィカの娘へレーネであった。

妹ルドヴィカと仲が良かったこともゾフィー大公妃を助けた。

かくしてフランツ・ヨーゼフ1世を授かったバート・イシュルの地で、ゾフィー大公妃と妹ルドヴィカは自身の子どもたちの見合いを画策していくのである。

準備は整い、1853年2月18日、ゾフィー大公妃はウィーンへルドヴィカと娘の公女へレーネを招き、フランツ・ヨーゼフ1世と会わせる予定でいた。

しかしまさにその日、フランツ・ヨーゼフ1世はハンガリー人ヤーノシュ・リベーニに襲われ頭蓋骨に負傷する。

ゾフィー大公妃は、皇后を探すどころではなかったであろう。
何度も革命の嵐から逃れたこともある皇帝一家であったが、まさかウィーンで皇帝が襲われるとは!

皇后探しは一旦フランツ・ヨーゼフ1世の快癒を待つこととなる。

仕切り直されたのは、1853年8月16日。まずは「皇帝陛下の誕生祝い」と称して。

選ばれたのは15歳の「バイエルン公女エリザベート」

ところが事は計画通りにはいかなかった。

見合いの場バート・イシュル、しかしそこで23歳の若き皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が見初めたのは、人数合わせについて来ていたへレーネの妹エリザベートであった。

1848年6月、ハプスブルク家の皇帝一家が革命から逃れ、オーストリアのインスブルックまで避難していた際に、エリザベートの母ルドヴィカは姉ゾフィー大公妃を見舞っている。

この時実は出会っていた皇帝フランツ・ヨーゼフ1世とエリザベートだが、当時は幼すぎて結婚相手とはお互いに思ってもいなかった二人だ。

しかしこの時バート・イシュルで、フランツ・ヨーゼフ1世はエリザベートを皇妃に選んだ。これは運命と呼んでもおかしくない出来事であろう。

実際、フランツ・ヨーゼフ1世よりも、エリザベートは弟カール・ルートヴィヒと気が合い、事実今にして思えば「そうなっていたら良かった」と思われるものだったのだ。
(それも難しかったかもしれないが。)

しかしどうだ。時の流れは、ゾフィー大公妃を翻弄した。

フランツ・ヨーゼフ1世の強い決心に折れ、ゾフィー大公妃はエリザベートを皇后として迎えることに同意したのである。

皇妃エリザベートを賞賛するゾフィー大公妃の思惑

ゾフィー大公妃といえば皇妃エリザベートとの不仲で有名だろう。

しかし意外なことにゾフィー大公妃はエリザベートを認めていた。ゾフィー大公妃の日記にも姉妹への手紙にも、エリザベートの賞賛で溢れている。

〜中略〜

物腰はきわめて優雅、控えめ、そして文句のつけようのないほど優美で、皇帝と踊るときは謙虚といってよいほどでした。

皇帝と寄り添ってコティヨンを踊る姿は、まるで太陽の光を浴びてほころびかけるバラのつぼみのようです。

〜中略〜

参考文献:ブリギッテ・ハーマン著/中村康之訳 「エリザベート 美しき皇妃の伝説」 上

またゾフィー大公妃は、皇后となれば自身の身分の上となるエリザベートへ先に道を譲るなど、エリザベートを尊重してみせた。

今は未来の皇后が決まったことで満足だったのだ。

なぜならゾフィー大公妃には、エリザベートに「皇后に相応しい教育をする」自信があったからである。

「シシィ、私があなたをハプスブルク家、オーストリア帝国皇后に相応しい人物にして差し上げますよ」

さっそくゾフィー大公妃は息子たちの婚約祝いにと、経済的に苦しい中、バート・イシュルを改築、プレゼントする。

上空から見るとバート・イシュルの屋敷はエリザベートのイニシャルである「E」が読み取れることからも、若き皇帝の婚約はゾフィー大公妃にとっても大きな喜びであった。

何もかもが上手くいくと思っていたに違いない。ゾフィー大公妃の思っているとおりに。

しかしゾフィー大公妃の思惑と現実は全く違ったのである。

ゾフィー大公妃と皇妃エリザベートとの確執

ゾフィー大公妃と皇妃エリザベートの確執はあまりにも有名だが、ここにその裏側を記そう。

1854年4月24日、エリザベートとフランツ・ヨーゼフ1世は豪華な結婚式を挙げた。

しかし嫁いできたエリザベートは、ゾフィー大公妃とは完全に真逆の考え方を持っていた。さらにゾフィー大公妃が嫌うハンガリーを愛する娘となっていた。

エリザベートは自分の自由に重きをおき、皇后としての責務よりも個人としての自立を第一に考える、まだあどけない少女だったのだ。

最初は殊勝なエリザベートを横目に、ゾフィー大公妃は厳しく教育していこうとしたとされる。

エリザベートの教育係には、あのバート・イシュルで出会っていたゾフィー大公妃の右腕ともいえるエステルハージ伯爵夫人をつけた。

その後エリザベートの出産した子どもも、ゾフィー大公妃は我が手に抱いた。

孫のゾフィー(夭折)、ギーゼラ、ルドルフ皇太子は、ゾフィー大公妃の手元におき育てた。

ゾフィー大公妃にしてみたら当たり前のことだったのだ。
それが「しきたり」であった。

しかし母となったエリザベートにとっては当たり前ではなかった。

子どもを取り上げられ、夫フランツ・ヨーゼフ1世に泣きつくも聞いてもらえない。

ゾフィー大公妃にも何を言っても聞いてもらえないと悟ったエリザベートは、夫フランツ・ヨーゼフ1世に自分の頼みごとをするようになった。

そしてエリザベートは、ゾフィー大公妃の目を盗み、やっとの思いで家族でハンガリーに出かけることに成功する。

しかしその行幸の最中、娘たちが病にかかり、エリザベートの長女ゾフィー大公女が旅先のハンガリーで病死してしまう。

「まさか死んでしまうとは」と、エリザベートは恐怖に震え怯えた。長女の死により、エリザベートは子育てに消極的になってしまったのだ。

ゾフィー大公妃の態度は歴史を顧みなくとも明らかであろう。

18世紀の考え方で生きるゾフィー大公妃と、未来を予測させるかのような生き方を好む皇妃エリザベート。考えが合うわけがなかった。

こうして二人の間には、ゾフィー大公妃の生涯が終わるその時まで、埋まることのない溝ができたのである。

影の皇后・ゾフィー大公妃

孫にも恵まれ、ゾフィー大公妃は「影の皇后」と呼ばれるようになっていった。

何しろ本物の皇后である皇妃エリザベートは、ウィーンから姿を消すようになったのだ。

エリザベートは肺を病み、療養先で出向いた旅先スペイン・マデイラ島で一時は回復する。しかしウィーンに戻ると元の状態に戻ってしまうのである。

エリザベートは離婚を考えるほど参っていた。
そのためエリザベートはウィーンを不在がちになった。

息子フランツ・ヨーゼフ1世もゾフィー大公妃に従順で、ゾフィー大公妃自身も「今後は政治には口を出さない」と言ったことすら忘れ、「影の皇后」とまで呼ばれる政治的手腕を発揮していくのである。

打ちのめされるゾフィー大公妃

しかし時代背景はハプスブルク家にとって非常に苦しいものへと変貌していく。

その中で息子フランツ・ヨーゼフ1世が母ゾフィー大公妃から自立していき、「影の皇后」の意見は通らなくなっていった。

衰えを見せるゾフィー大公妃は、それでもオーストリア=ハンガリー二重帝国となった際には、自身にハンガリーの称号をつけることを徹底的に拒絶した。

エリザベートとフランツ・ヨーゼフ1世が決めたオーストリア=ハンガリー二重帝国は、ゾフィー大公妃には到底受け入れ難いものだったのである。

さらに悲劇がゾフィー大公妃を襲う。
遠いメキシコの地に渡った息子フェルディナント・マクシミリアン(メキシコ皇帝)が銃殺刑に処されてしまったのだ。

ゾフィー大公妃はフェルディナント・マクシミリアンを溺愛していた。

皇帝となるべく育てたフランツ・ヨーゼフ1世とは育て方を変えて愛した息子であった。

その後ナポレオン3世の勧めや、フランツ・ヨーゼフ1世の決定もあり、皇帝となるべくメキシコに渡った愛しい息子フェルディナント・マクシミリアン。

その遥か遠くの地で悲劇的に散った、ゾフィー大公妃がひどく愛する息子であった。

溺愛する息子フェルディナント・マクシミリアンの悲劇的な死は、ゾフィー大公妃を打ちのめしてしまったのである。

皇妃エリザベートの献身とゾフィー大公妃の最期

はたしてゾフィー大公妃は、1872年、うっかり引いた風邪からあっけなくこの世を去っていく。

しかし病に臥せったゾフィー大公妃の最後を介護したのは、長年不仲であった皇妃エリザベートであったとされる。

晩年のゾフィー大公妃、1866年ごろ
晩年のゾフィー大公妃、1866年ごろ/パブリックドメイン5

エリザベートは、ゾフィー大公妃の病状悪化に伴い、滞在していたメラン(現在のメラーノ)からウィーンに戻ったのである。

エリザベートは、まだまだ若い頃、ゾフィー大公妃が自身に取った行いには意味があったのだと気がついていたのだ。

さらにエリザベートはゾフィー大公妃が亡き後もウィーンには戻らなかったことから、すでに確執ではなく、自分の自由に生きていたことが分かる。

この世を去ろうとするゾフィー大公妃と、自信に満ち溢れた皇妃エリザベートがそこにはいた。

二人の立場はとっくに逆転していたのである。

エリザベートへのゾフィー大公妃の最後の気持ちは史実に残っていない。

しかし考えてみて欲しい。 二人の確執は、よくある「同居した嫁と姑」がスケールアップしただけなのだ。

二人にはお互いの正義があった、それだけなのである。

ゾフィー大公妃の死は、フランツ・ヨーゼフ1世もエリザベートも、ルドルフ皇太子も悼んだという。

そんなゾフィー大公妃のたった一つの救いは、ゾフィー大公妃自身が育てた愛する孫ルドルフ皇太子の悲劇的な死を見なかったことに尽きる。

けして悪役ではない。ゾフィー大公妃は自分の信念のもと時代を生き抜いた立派な女性だったのである。

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参考文献

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画像出典

  1. フランソワ・ジェラール作「 Marie-Louise, Empress of the French, and the Roi de Rome」
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  2. Leopold Bucher 作「 Napoleon II, also known as Franz, Duke of Reichstadt」
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  3. Joseph Karl Stieler 作 「Sophie, Erzherzogin von Österreich, mit ihrem Sohn Erzherzog Franz Joseph.」
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  4. フランツ・クサーヴァー・ヴィンターハルター/Franz Xaver Winterhalter作「Anna of Prussia, 1858」
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  5. Ludwig Angerer 作「Prinzessin Sophie von Bayern, Erzherzögin von Österreich, 1866」
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