皇妃エリザベートの生涯と
ハプスブルク家
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悪女ではない!|ゾフィー大公妃、ハプスブルク家の舵を取った唯一の「男性」

ゾフィー大公妃は、皇妃エリザベートの義母にして実の伯母です。

ハプスブルク家の実権を長く握っていた人物でした。

厳格で何よりも伝統としきたりを重んじ、ハプスブルク家の繁栄に努めていました。

「ハプスブルク家唯一の男性」と揶揄される、フランツ・ヨーゼフ1世の母ゾフィー大公妃。

エリザベートとの確執で有名ですが、ゾフィー大公妃もまたハプスブルク家に嫁いだ女性としての苦しみを抱えていた人物です。

悪女ではない!ゾフィー大公妃、ハプスブルク家の舵を取った唯一の「男性」
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ハプスブルク家に嫁いだゾフィー大公妃の役割と悲しみ

ゾフィー大公妃の役割。それはハプスブルク家を繁栄させることである。

しかしバイエルン王ヴィッテルスバッハ家からフランツ・カール大公に嫁いだ当初は、なかなか子どもに恵まれなかった。

だからこそゾフィー大公妃は、「どうすればハプスブルク家で生きていけるか」を真剣に、またはハプスブルク家の主人公のごとく考え抜いた女性であっただろう。

ゾフィー大公妃は懐妊するも、2回流産している。

そのため、フランツ・ヨーゼフ1世を授かった際は、宮廷という名の籠に入り、侍医の監視付きで生活していた。

ゾフィー大公妃の苦労が伺えるエピソードである。

その後フランツ・ヨーゼフ1世を無事に出産。

バート・イシュルの塩泉に行った後、フランツ・ヨーゼフ1世を授かったとされる。

以降も第二子マクシミリアン・フェルディナント、第三子カール・ルートヴィヒと続けて男子を出産し、生涯では(亡くした子どもを含め)9人出産する。

亡くなった子どもは4人いたとされる。

血族結婚であったことや、当時子どもが健康的に成長するのは難しい時代であったことも手伝っていた。

息子フランツ・ヨーゼフを次期皇帝に!

息子フランツ・ヨーゼフが生まれたことで、ゾフィー大公妃はフランツ・ヨーゼフに対しては未来の皇帝としての教育を施した。

貴族の女性でありながら、そして母でありながら、ゾフィー大公妃の政治的手腕はハプスブルク家を支えていたこともあった。

フランツ・ヨーゼフ1世を抱えようとしているゾフィー大公妃
フランツ・ヨーゼフ1世を抱えようとしているゾフィー大公妃/パブリックドメイン1

ゾフィー大公妃は、夫カール・ルートヴィヒ大公には最初から期待していなかったと言われている。

そしてゾフィー大公妃の野心が首をもたげたのだ。

「息子フランツィ(フランツ・ヨーゼフの愛称)を次の皇帝に!」

ハプスブルク家を囲む世界事情はとても複雑であった。

ハプスブルク家の更なる繁栄を何よりも願ったゾフィー大公妃は、政治的な考え方で対立していた宰相メッテルニヒとも思いが重なっていく。

そのためには現皇帝であるフェルディナント1世に、息子フランツ・ヨーゼフが成長するまで持ち堪えてもらわねばならない。

フェルディナント1世は病弱であったため、フランツ・ヨーゼフが成人するまで帝位についていてもらわなければ困るのだ。

ゾフィー大公妃は賭けに出たと言っても過言ではないだろう。

そしてついには病弱であったフェルディナント1世の次の皇帝の地位を、夫フランツ・カール大公ではなく、息子フランツ・ヨーゼフ1世に継がせることに成功するのである。

完璧な皇后を探せ!

「次は皇后を選ばねばならない、しかも完璧な皇后を!」

ゾフィー大公妃は、実際にはだいぶ以前から息子フランツ・ヨーゼフの妃を探していた。

有名なのは、ザクセンにいたマリア・アンナであった。

実際に息子フランツ・ヨーゼフを連れて二人を合わせ、フランツ・ヨーゼフもまんざらではなかったのだ。

しかし何といっても、相手はザクセンの娘。

しかもマリア・アンナには極秘のうちに結婚相手が決まっていたことが大きかったし、プロイセンに名を轟かせるビスマルクの大反対もあった。

マリア・アンナを皇妃に迎えることは諦めざるを得なかった。

とにかくゾフィー大公妃はフランツ・ヨーゼフ1世のために、あるいは自分のために、完璧な妃を探し続けたのである。

長くさまざまな皇后候補を探し続けた。

その熱量でついに白羽の矢が立ったのが、ゾフィー大公妃の妹でバイエルン公家に嫁いだルドヴィカの娘へレーネであった。

妹ルドヴィカと仲が良かったこともゾフィー大公妃を助けた。

かくしてフランツ・ヨーゼフ1世を授かったバート・イシュルの地で、ゾフィー大公妃と妹ルドヴィカは自身の子どもたちの見合いを画策していく。

選ばれたのは15歳の「エリザベート」

しかしそこで23歳の若き皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が見初めたのは、人数合わせについて来ていたへレーネの妹エリザベートであった。

幼い頃に出会っていた皇帝フランツ・ヨーゼフ1世とエリザベートだったが、当時は幼すぎて結婚相手とはお互いに思ってもいなかった。

フランツ・ヨーゼフ1世よりも、エリザベートは弟カール・ルートヴィヒと気が合い、事実今にして思えば「そうなっていたら良かった」と思われるものだったのだ。

しかしどうだ。時の流れは、ゾフィー大公妃を翻弄した。

フランツ・ヨーゼフ1世の強い決心に折れ、ゾフィー大公妃はエリザベートを皇后として迎えることに同意する。

エリザベートとゾフィー大公妃

ゾフィー大公妃といえば皇妃エリザベートとの不仲で有名だろう。

しかし意外なことにゾフィー大公妃はエリザベートを認めていた。ゾフィー大公妃の日記にも姉妹への手紙にも、エリザベートの賞賛で溢れている。

〜中略〜

物腰はきわめて優雅、控えめ、そして文句のつけようのないほど優美で、皇帝と踊るときは謙虚といってよいほどでした。

皇帝と寄り添ってコティヨンを踊る姿は、まるで太陽の光を浴びてほころびかけるバラのつぼみのようです。

〜中略〜

ブリギッテ・ハーマン著/中村康之訳「エリザベート 美しき皇妃の伝説」

またゾフィー大公妃は、皇后となれば自身の身分の上となるエリザベートへ先に道を譲るなど、エリザベートを尊重した。

今は未来の皇后が決まったことで満足だ。

なぜならゾフィー大公妃には、エリザベートに「皇后に相応しい教育をする」自信があったのだ。

さっそくゾフィー大公妃は息子たちの婚約祝いにと、経済的に苦しい中、バート・イシュルを改築、プレゼントする。

上空から見るとバート・イシュルの屋敷はエリザベートのイニシャルである「E」が読み取れることからも、若き皇帝の婚約はゾフィー大公妃にとっても大きな喜びであった。

何もかもが上手くいく。ゾフィー大公妃の思っているとおりに。

しかしゾフィー大公妃の思惑と現実は違った。

ハプスブルク家が第一と考えるゾフィー大公妃

1854年4月24日、エリザベートとフランツ・ヨーゼフ1世は豪華な結婚式を挙げた。

嫁いできたエリザベートは、ゾフィー大公妃とは完全に真逆の考え方を持っていた。

自分の自由に重きをおき、皇后としての責務よりも個人としての自立を第一に考える、まだあどけない少女だったのだ。

それでもゾフィー大公妃は、エリザベートの子どもを我が手に置いた。

孫のゾフィー(早世)、ギーゼラ、ルドルフ皇太子は、ゾフィー大公妃の手元におき育てた。

ゾフィー大公妃にしてみたら当たり前のことだったのだ。

しかし母となったエリザベートにとっては当たり前ではなかった。

子どもを取り上げられ、夫フランツ・ヨーゼフ1世に泣きつくも聞いてもらえない。

ゾフィー大公妃に何を言っても聞いてもらえないと悟ったエリザベートは、夫フランツ・ヨーゼフ1世に自分の頼みごとをするようになった。

ゾフィー対抗日の目を盗み、やっと家族でハンガリーに出かけることに成功する。

しかしエリザベートの長女ゾフィー大公女が旅先のハンガリーで病死する。

「まさか死んでしまうとは」と、エリザベートは恐怖に怯えた。エリザベートは子育てに消極的になってしまったのだ。

ゾフィー大公妃の態度は歴史を顧みなくとも明らかである。

こうしてゾフィー大公妃とエリザベートの間には、ゾフィー大公妃の生涯が終わるその時まで、埋まることのない溝ができたのである。

影の皇后ゾフィー大公妃

孫にも恵まれ、ゾフィー大公妃は影の皇后と呼ばれるようになっていった。

何しろ皇妃エリザベートはウィーンから姿を消すようになったのだ。

エリザベートは肺を病み、療養先で出向いた旅先スペイン・マデイラ島で一時は回復するも、ウィーンに戻ると元の状態に戻ってしまう。

そのためエリザベートはウィーンを不在がちになった。

息子フランツ・ヨーゼフ1世もゾフィー大公妃に従順で、影の皇后とまで呼ばれる政治的手腕を発揮していく。

打ちのめされるゾフィー大公妃

しかし時代背景はハプスブルク家にとって非常に苦しいものへと変貌していく。

その中で息子フランツ・ヨーゼフ1世が自立していき、ゾフィー大公妃の意見は通らなくなっていった。

オーストリア=ハンガリー二重帝国となった際にも、自身にハンガリーの称号をつけることを徹底的に拒絶した。

エリザベートとフランツ・ヨーゼフ1世が決めたオーストリア=ハンガリー二重帝国は、ゾフィー大公妃には受け入れ難いものだったのである。

さらに遠いメキシコの地に渡った息子フェルディナント・マクシミリアン(メキシコ皇帝)が処刑された。

ゾフィー大公妃はフェルディナント・マクシミリアンを溺愛していた。

皇帝となるべく育てたフランツ・ヨーゼフ1世とは、徹底的に育て方を変えてきたのだ。

愛する息子の死という悲劇は、ゾフィー大公妃を打ちのめしてしまった。

エリザベートの献身とゾフィー大公妃の最期

はたしてゾフィー大公妃は1872年、あっけなくこの世を去っていく。

しかし病に臥せったゾフィー大公妃を介護したのは、長年不仲であった皇妃エリザベートであった。

晩年のゾフィー大公妃、1866年ごろ
晩年のゾフィー大公妃、1866年ごろ/パブリックドメイン2

エリザベートは、ゾフィー大公妃が自身に取った行いには意味があったのだと気がついていたのである。

エリザベートへのゾフィー大公妃の最後の気持ちは史実に残っていない。

ゾフィー大公妃の死は、フランツ・ヨーゼフ1世もエリザベートも、ルドルフ皇太子も悼んだという。

そんなゾフィー大公妃のたった一つの救いは、ゾフィー大公妃自身が育てた愛する孫ルドルフ皇太子の悲劇的な死を見なかったことだろう。

けして悪役ではない。ゾフィー大公妃は自分の信念のもと生き抜いた立派な女性だったのである。

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参考文献

  • ブリギッテ・ハーマン著/中村康之訳 「エリザベート 美しき皇妃の伝説」 上 ISBN 978-4-02-261488-9
  • ブリギッテ・ハーマン著/中村康之訳 「エリザベート 美しき皇妃の伝説」 下 ISBN 978-4-02-261489-6
  • 須賀しのぶ著 「帝冠の恋」 ISBN 978-4-19-894144-4

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画像出典

  1. Joseph Karl Stieler 作 「Sophie, Erzherzogin von Österreich, mit ihrem Sohn Erzherzog Franz Joseph.」
    アメリカではパブリックドメインです。
    詳しくはこちら ↩︎
  2. Ludwig Angerer 作「Prinzessin Sophie von Bayern, Erzherzögin von Österreich, 1866」
    アメリカではパブリックドメインです。
    詳しくはこちら ↩︎
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