フランツ・ヨーゼフ1世は、オーストリアの、そしてハプスブルク家の「事実上」最後の皇帝です。
生まれた時から母ゾフィー大公妃に皇帝になるよう育てられました。
18歳で皇帝となり、23歳で皇妃エリザベートと結婚。
絶対君主主義のまま激動の時代を駆け抜けた皇帝でした。
フランツ・ヨーゼフ1世の人物データ
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世
全名
フランツ・ヨーゼフ・カール・ヨハン・アダム・マリア・カイザー・フォン・エスターライヒ
Franz Joseph I.,Franz Joseph Carl Johann Adam Maria, Kaiser von Österreich
生年月日〜没年月日
1830年8月18日〜1916年11月21日
性別
男性
伴侶
オーストリア皇后エリザベート
愛称
フランツィ、Franzi
主な称号
- オーストリア皇帝
- ハンガリー国王(公式な称号:アポストリック・ハンガリー国王)ほか
在位期間
- オーストリア皇帝:1848年12月2日〜1916年11月21日
- ハンガリー皇帝:1867年6月8日〜1916年11月21日
戴冠式
- オーストリア皇帝:1848年12月2日
- ハンガリー国王:1867年6月8日
※オーストリア皇帝としては、華々しい戴冠式はなかった。
※ハンガリー国王としては、マーチャーシュ聖堂にて、午前9時から行われた。
生誕地
オーストリア帝国、ウィーン、シェーンブルン宮殿
死去時の年齢と場所
86歳
オーストリア帝国、ウィーン、シェーンブルン宮殿
埋葬地
- 肉体:オーストリア、ウィーン、カプツィーナ教会
- 心臓:オーストリア、ウィーン、アウグスティーナ教会
- 内臓:オーストリア、ウィーン、シュテファン大聖堂
両親
- 父:オーストリア大公フランツ・カール
- 母:ゾフィー・フリデリケ・バイエルン王女/オーストリア大公妃
子どもたち
- ゾフィー大公女(幼くして夭折)
- ギーゼラ・ルイーゼ王女(バイエルン王太子妃/バイエルン王国廃止後バイエルン公爵夫人)
- ルドルフ皇太子
- マリー・ヴァレリー大公女
性格
勤勉、真面目、保守的、頑固、質素倹約
趣味・愛用品
グーゲルフップフ等のお菓子、狩猟、軍事、旅行、音楽鑑賞
選帝侯/選帝権の有無
なし
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世
全名
フランツ・ヨーゼフ・カール・ヨハン・アダム・マリア・カイザー・フォン・エスターライヒ
Franz Joseph I.,Franz Joseph Carl Johann Adam Maria, Kaiser von Österreich
生年月日〜没年月日
1830年8月18日〜1916年11月21日
性別
男性
伴侶
オーストリア皇后エリザベート
愛称
フランツィ、Franzi
主な称号
- オーストリア皇帝
- ハンガリー国王(公式な称号:アポストリック・ハンガリー国王)ほか
在位期間
- オーストリア皇帝:1848年12月2日〜1916年11月21日
- ハンガリー皇帝:1867年6月8日〜1916年11月21日
戴冠式
- オーストリア皇帝:1848年12月2日
- ハンガリー国王:1867年6月8日
※オーストリア皇帝としては、華々しい戴冠式はなかった。
※ハンガリー国王としては、マーチャーシュ聖堂にて、午前9時から行われた。
生誕地
オーストリア帝国、ウィーン、シェーンブルン宮殿
死去時の年齢と場所
86歳
オーストリア帝国、ウィーン、シェーンブルン宮殿
埋葬地
- 肉体:オーストリア、ウィーン、カプツィーナ教会
- 心臓:オーストリア、ウィーン、アウグスティーナ教会
- 内臓:オーストリア、ウィーン、シュテファン大聖堂
両親
- 父:オーストリア大公フランツ・カール
- 母:ゾフィー・フリデリケ・バイエルン王女/オーストリア大公妃
子どもたち
- ゾフィー大公女(幼くして夭折)
- ギーゼラ・ルイーゼ王女(バイエルン王太子妃/バイエルン王国廃止後バイエルン公爵夫人)
- ルドルフ皇太子
- マリー・ヴァレリー大公女
性格
勤勉、真面目、保守的、頑固、質素倹約
趣味・愛用品
グーゲルフップフ等のお菓子、狩猟、軍事、旅行、音楽鑑賞
選帝侯/選帝権の有無
なし
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フランツ・ヨーゼフ1世の完全な全名や由来
全名の他の言語の綴り
- ハンガリー語:I. Ferenc József Károly János Ádám Mária, Ausztria Csász
- チェコ語:František Josef Karel Jan Adam Maria, Císař Rakouský
- 英語/US:Franz Joseph Carl Johann Adam Maria, Emperor of Austria
完全な全名(洗礼名を含む)
フランツ・ヨーゼフ・カール・ヨハン・アダム・マリア・カイザー・フォン・エスターライヒ
完全な全名(洗礼名を含む)の綴りと読み
- ドイツ語:Franz Joseph Carl Johann Adam Maria, Kaiser von Österreich
- 読み:フランツ・ヨーゼフ・カール・ヨハン・アダム・マリア、カイザー・フォン・エスターライヒ
- ハンガリー語:I. Ferenc József Károly János Ádám Mária, Ausztria Császára
- 読み:ファラエンツ・ヨージェフ・カーロイ・ヤーノシュ・アーダーム・マリア、アウストリア・チャーサーラ
- チェコ語:František Josef Karel Jan Adam Maria, Císař Rakouský
- 読み:フランティシェク・ヨゼフ・カレル・ヤン・アダム・マリア、ツィーサル・ラクースキー
- 英語/US:Franz Joseph Carl Johann Adam Maria, Emperor of Austria
- 読み:フランツ・ジョセフ・カール・ヨハン・アダム・マリア、エンペラー・オブ・オーストリア
出生名・洗礼名
フランツ・ヨーゼフ・カール
Franz Joseph Karl
旧姓名
なし
名付け親
不明
由来
- カール(Carl):フランツ・ヨーゼフ1世の父、フランツ・カール大公に由来。
- ヨハン(Johann):フランツ・ヨーゼフ1世の祖父、ヨハン・バプティスト・フォン・エスターライヒ大公に由来。
- アダム(Adam):聖アダムに由来。カトリックの伝統では、聖人の名前を名付けることが一般的だった。
洗礼名
マリア(Maria)
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フランツ・ヨーゼフ1世のその他の称号と尊称
その他の称号
- ボヘミア国王
- クロアチア国王ほか
主な尊称
- オーストリア皇帝陛下
- ハンガリー国王陛下(公式な称号:アポストリック・ハンガリー国王陛下)
- ボヘミア国王陛下
- クロアチア国王陛下ほか
尊称の綴りと読み
オーストリア皇帝陛下
- ドイツ語:Seine Majestät der Kaiser von Österreich
- 読み:ザイネ・マイエステート・デア・カイザー・フォン・エスターライヒ
- 英語/US:His Majesty the Emperor of Austria
- 読み:ヒズ・マジェスティ・ジ・エンペラー・オブ・オーストリア
ハンガリー国王陛下(公式な称号:アポストリック・ハンガリー国王陛下)
- ハンガリー語:Őfelsége a Magyar Király(Apostoli Magyar Király)
- 読み:ウーフェルシェーゲ・ア・マジャル・キラーイ(ウーフェルシェーゲ・アズ・アポストリ・マジャル・キラーイ)
- 英語/US:His Majesty the King of Hungary(Apostolic Queen of Hungary)
- 読み:ヒズ・マジェスティ・ザ・キング・オブ・ハンガリー(ヒズ・マジェスティ・ジ・アポストリック・キング・オブ・ハンガリー)
ボヘミア国王陛下
- ドイツ語:Seine Majestät der König von Böhmen
- 読み:ザイネ・マイエステート・デア・ケーニヒ・フォン・ベーメン
- チェコ語:Jeho Veličenstvo český král
- 読み:イェホ・ヴェリチェンストヴォ・チェスキー・クラール
- 英語/US:His Majesty the King of Bohemia
- 読み:ヒズ・マジェスティ・ザ・キング・オブ・ボヘミア
クロアチア国王陛下
- ドイツ語:Seine Majestät der König von Kroatien
- 読み:ザイネ・マイエステート・デア・ケーニヒ・フォン・クロアティエン
- クロアチア語:Njegovo Veličanstvo Kralj Hrvatske
- 読み:ニェゴヴォ・ヴェリチャンストヴォ・クラリ・フルヴァツケ
- 英語/US:His Majesty the King of Croatia
- 読み:ヒズ・マジェスティ・ザ・キング・オブ・クロアチア
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フランツ・ヨーゼフ1世の家系と家族
家系
オーストリア帝国 / ハプスブルク=ロートリンゲン家
家族
伴侶の詳細
オーストリア皇后エリザベート
全名:エリザベート・アマーリエ・オイゲーニエ・フォン・エスターライヒ
綴り:Elisabeth Amalie Eugenie von Österreich, Kaiserin von Österreich
両親
父:オーストリア大公フランツ・カール
全名:フランツ・カール・フォン・エスターライヒ
綴り:Franz Karl von Österreich
母:ゾフィー・フリデリケ・バイエルン王女/オーストリア大公妃
ゾフィー・フレデリケ・ドロテア・ヴィルヘルミーネ・フォン・バイエルン、ゾフィー・フォン・エスターライヒ
綴り:Sophie Friederike Dorothea Wilhelmine von Bayern, Sophie von Österreich
※当時のバイエルン王国の王女は、結婚後も「王女」の称号を持っていた。
兄弟姉妹
マクシミリアーネ大公女(1831年7月4日生まれ、同日死亡)
全名:マクシミリアーネ・マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ
綴り:Maximiliane Maria Josepha von Österreich, Erzherzogin von Österreich
フェルディナント・マクシミリアン大公、メキシコ皇帝
全名:フェルディナント・マクシミリアン・ヨーゼフ・マリア・フォン・エスターライヒ
綴り:Ferdinand Maximilian Joseph Maria von Österreich, Erzherzog von Österreich, Kaiser von Mexiko
カール・ルートヴィヒ大公(テシュン公爵、オーストリア=エステ家当主)
全名:カール・ルートヴィヒ・ヨハン・ヨーゼフ・フォン・エスターライヒ
綴り:Karl Ludwig Johann Joseph von Österreich, Erzherzog von Österreich, Herzog von Teschen, Haupt des Hauses Österreich-Este
マリア・アンナ・オーストリア大公女
全名:マリア・アンナ・カロリーナ・ピア・フォン・エスターライヒ
綴り:Maria Anna Karolina Pia von Österreich, Erzherzogin von Österreich
マリア・アンナ・カロリーナ・ピアの双子の妹(オーストリア大公女、1835年9月27日生まれ、同日死亡)
全名:(マリア・アンナ・カロリーナ・ピアの双子の妹)フォン・エスターライヒ
綴り:(Maria Anna Karolina Pias Zwillingsschwester) von Österreich, Erzherzogin von Österreich
フェルディナント・カール・ヴィクトール大公(1840年11月24日生まれ、幼少期に死去)
全名:フェルディナント・カール・ヴィクトル・フォン・エスターライヒ
綴り:Ferdinand Karl Viktor von Österreich, Erzherzog von Österreich
ルートヴィヒ・ヴィクトール大公
全名:ルートヴィヒ・ヴィクトル・ヨーゼフ・アントン・フォン・エスターライヒ
綴り:Ludwig Viktor Joseph Anton von Österreich, Erzherzog von Österreich
(女児)・フォン・エスターライヒ(1844年10月14日生まれ、同日死亡)
全名:(女児)・フォン・エスターライヒ
綴り:(Mädchen) von Österreich, Erzherzogin von Österreich
子どもたち
ゾフィー大公女(幼くして夭折)
全名:ゾフィー・フレデリケ・ドロテア・マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ
綴り:Sophie Friederike Dorothea Maria Josepha von Österreich, Erzherzogin von Österreich
ギーゼラ・ルイーゼ王女(バイエルン王太子妃/バイエルン王国廃止後バイエルン公爵夫人)
全名:ギーゼラ・ルイーゼ・マリエ・フォン・バイエルン
綴り:Gisela Louise Marie von Bayern, Prinzessin von Bayern
※バイエルン王国廃止後はバイエルン公爵夫人を名乗った。
ルドルフ皇太子(マイヤーリンク事件で情死とされる)
全名:ルドルフ・フランツ・カール・ヨーゼフ・フォン・エスターライヒ
綴り:Rudolf Franz Karl Joseph von Österreich, Kronprinz von Österreich, Ungarn und Böhmen
マリー・ヴァレリー大公女(トスカーナ大公妃)
全名:マリー・ヴァレリー・マティルダ・アマーリエ・フォン・エスターライヒ
綴り:Marie Valerie Mathilde Amalie von Österreich, Erzherzogin von Österreich, Großherzogin der Toskana
音声付き:フランツ・ヨーゼフ1世の簡易エピソード
人物データのページでは、エピソードは簡易版です。
詳細な史実エピソードは 下記 からご覧ください。
- 簡易エピソードを音声で聴きたい方は、見出し下のボタン( をタップまたはクリックしてください。
- 音が出ますので、お気をつけください。
【ご挨拶】
準備中です
フランツ・ヨーゼフ1世の生い立ち
フランツ・ヨーゼフ1世は、オーストリア帝国、そしてハプスブルク家の「正当な血筋の後継者」として生まれた。
その流れは少し遡れば、フランス王家に嫁いだマリー・アントワネット、そして女帝マリア・テレジアまで行き届く。
フランツ・ヨーゼフの誕生は国家として最大の喜びであった。
しかし貴族が優雅に過ごすだけの時代は終わっており、フランツ・ヨーゼフは大きな役目を背負う人物として生まれたのだった。
フランツ・ヨーゼフは母ゾフィー大公妃や宰相メッテルニヒが考えた厳しすぎるカリキュラムをこなし、真面目で実直な専制君主へと成長していった。
皇妃エリザベートとの出会いから結婚まで
エリザベートとは幼い頃に一度、ミュンヘンのリーデンブルク城で出会っている。
フランツ・ヨーゼフは伯父フェルディナント1世の退位に伴い、フランツ・ヨーゼフ1世に即位する。
ここでオーストリア帝国とハプスブルク家にとってふさわしい皇后を探していくことになる。
皇后候補は数名いたが、母ゾフィー大公妃がエリザベートの妹ルドヴィカと、自分たちの子どもたちの結婚を画策。
当初の予定はエリザベートの姉へレーネが見合い相手だったが、フランツ・ヨーゼフ1世はエリザベートに一目惚れしてしまう。
「エリザベート以外、結婚相手は考えられない!」
フランツ・ヨーゼフ1世は、初めて母ゾフィー大公妃に反抗したと言って良いだろう。
ゾフィー大公妃は、フランツ・ヨーゼフ1世の熱意に折れた。
そしてバート・イシュルで行われた「皇帝の誕生日を祝う集い」は、見事に「皇帝の婚約」へ変貌する。
相手がエリザベートになったのは、運命のいたずらだった。
フランツ・ヨーゼフ1世は婚約が整ったあとはすぐにウィーンに戻り、情勢を見守ることに専念。
エリザベートのことを想い少々浮かれていたのは否めないが、結婚の準備をしつつも、皇帝であることを忘れなかった。
暴動が起こり、落ち着かないオーストリア・ウィーンであったが、エリザベートはウィーンに到着。
こうして「真面目な絶対君主」フランツ・ヨーゼフ1世と、「のんびり天真爛漫」エリザベートが、オーストリア帝国の皇帝と皇后に君臨することになった。
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世として生きる
女帝マリア・テレジアが即位するために作られた相続法「プラグマティッシェ・ザンクティオン」により、本当ならば父フランツ・カール大公が皇帝になるはずだった。
しかしゾフィー大公妃に説得され、フランツ・カールは皇位継承権を放棄。
これにより、フランツ・ヨーゼフ1世の長い治世が続いていくことになる。
皇帝として生きていくことになにも異存ははなかった。フランツ・ヨーゼフ1世はすでに皇帝になるべく育てられていたのである。
ウィーンは荒れていた。1853年には、フランツ・ヨーゼフ1世も暗殺の危機に直面している。
軽傷で逃げおおせたフランツ・ヨーゼフはこれを光栄に思ったほど、皇帝として、専制君主とて自覚を持っていた。
腹心のグリュンネ伯爵らも側にいたが、つまりフランツ・ヨーゼフ1世は自身の成長過程において、確実にオーストリア帝国の統治スタイルを築いていったのである。
しかしこの確固たる信念が、オーストリア帝国ならびにハプスブルク家、そして愛する妻皇妃エリザベートの心を遠ざけていくことになる。
フランツ・ヨーゼフ1世の悲しみと苦しみ
皇帝として生きるフランツ・ヨーゼフ1世は、己のみを信じるようになった。また母ゾフィー大公妃や自分と同じ政治的思想を描く者を信じた。
幼少期からゾフィー大公妃には懐柔された。
皇妃エリザベートの苦しみも分からなかったため、結果として長女ゾフィーを旅先で亡くすことになる。
また次女ギーゼラ、待望の皇太子ルドルフが生まれるも、エリザベートは心どころか物理的な距離も離れていってしまう。
自分の弟でさえ脅威に感じたフランツ・ヨーゼフ1世は、弟フェルディナント・マクシミリアンを「皇帝の座を狙う者」としていた。
遠くの地メキシコ皇帝になったフェルディナント・マクシミリアンも処刑され、政治的思想が大きく違った息子で皇太子のルドルフも死を選択する。
特にルドルフ皇太子は父であるフランツ・ヨーゼフ1世に一言の手紙も残さなかった。
これが息子からの最後のメッセージであり、実際フランツ・ヨーゼフ1世はその通りになっていく。
そしてついには皇妃エリザベートもスイスにおいて暗殺され、この世を去っていったのだった。
「私が彼女をどれだけ愛していたか、他の者には分かるまい…。」
フランツ・ヨーゼフ1世はその後も淡々と過ごしたが、自分にとっての唯一の女性と息子である後継者を亡くした悲しみは理解できるだろう。
86歳までの長き治世、ハプスブルク家と共に終わる
イタリアの独立を許し、ロシアを敵にまわし、領土を失い続け、オーストリア帝国は終焉に向かう。
フランツ・ヨーゼフ1世が自身の最期まで執務に取り掛かろうとしていたことからも、絶対君主に重きを置きすぎたと言える。
オーストリア=ハンガリー二重帝国成立。
しかし新しく皇太子になった甥のフランツ・フェルディナントは反ハンガリーで、フランツ・ヨーゼフ1世とは政治的思想でも折り合いが悪かった。
さらにフランツ・フェルディナントの貴賤結婚でハプスブルク家は崩壊寸前だった。
そのフランツ・フェルディナントがサラエボにおいて夫婦で暗殺され、ヨーロッパに広がりつつあった憎悪の念は一気に渦を巻き加速していく。
第一次世界大戦勃発、しかしフランツ・ヨーゼフ1世にはすでに昔のような覇気はなかった。
フランツ・ヨーゼフ1世は、生まれた地ウィーンのシェーンブルン宮殿で、86歳で静かに人生の幕を下ろした。
詳細記事一覧
さらに詳細な記事もどうぞご覧ください。
参考文献
フランツ・ヨーゼフ1世の参考文献一覧です。
参考書籍
- ブリギッテ・ハーマン著/中村康之訳 「エリザベート 美しき皇妃の伝説」 上 ISBN 978-4-02-261488-9
- ブリギッテ・ハーマン著/中村康之訳 「エリザベート 美しき皇妃の伝説」 下 ISBN 978-4-02-261489-6
- スティーヴン・ベラー著/坂井榮八郎監修/川瀬美保訳 「フランツ・ヨーゼフとハプスブルク帝国」 ISBN 4-88708-281-9
- 江村洋著 「フランツ・ヨーゼフ ハプスブルク「最後」の皇帝」 ISBN 978-4-309-41266-5
- 川成洋 編集者代表/菊池良生 佐竹謙一 編者 「ハプスブルク事典」 ISBN 978-4-621-30681-9
フランツ・ヨーゼフ1世の参考書籍一覧は こちら からどうぞ。