皇妃エリザベートとアントワネットには、似ているどころか歴史的に関係や繋がりがありました。
歴史的な事実からも、皇妃エリザベートとマリー・アントワネットの生涯が似ていると感じる方は多いようです。
血のつながりはなくても、共通項は「ハプスブルク家」。
ハプスブルク家と言えば政略結婚です。
二人の生涯がドラマチックに交差する点を、ぜひ一緒に考えていきましょう。
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とにかく窮屈なしきたりを嫌って逃げた皇妃エリザベート

エリザベートはバイエルンの豊かな自然の中で天真爛漫に育ちました。
皇帝に姉ヘレーネが選ばれず、自分が選ばれたことにより、電撃的に婚約・結婚します。
しかし母の愛情のもと、自分のことは自分で行ってきたため、16歳で嫁いだハプスブルク家のしきたりや生活に慣れることができませんでした。
たった一人の味方である夫フランツ・ヨーゼフ1世にも、多忙でなかなか相手にしてもらえませんでした。
革命や時代の大きな変化の中で、成長し大人となっても、孤独と寂しさを感じながら、自由を求める生涯を送ったのです。
窮屈な知らない国で自由に振る舞ったマリー・アントワネット

一方マリー・アントワネットは、ハプスブルク家から14歳でフランス王家に嫁ぎました。
エリザベートと似ているのは、姉ヨハンナ・ガブリエーラが嫁ぐはずだったということ。姉が天然痘で亡くなったため、アントワネットがフランスに嫁ぐこととなったのです。
若いというより幼かったアントワネットは、他国の窮屈なしきたりを嫌いました。
夫ルイ16世とも結婚するまで会ったこともありませんでした。アントワネットが何となく「これが結婚?」と思ったとしても無理はないでしょう。
そしてフランス革命が起き、アントワネットは祖国オーストリアに助けを求めます。
しかしながらオーストリアもアントワネットどころではない世界情勢下であったためアントワネットを助けられず、結果としてアントワネットは処刑されてしまいます。
こうしてハプスブルク家大公女の処刑は、誰もが忘れられない出来事になったのです。
安息の地を求めたエリザベートとアントワネット
皇妃エリザベートは肺を病み、精神的に限界でした。スペイン・マデイラ島に転地療養しますが、ウィーンに戻ると体調を崩してしまいます。
エリザベートはウィーンに「滞在」することにし、公務もほとんど放置。
安息を求めて生涯を旅する「ちょっと変わった皇妃」となります。
婚約した地であるバート・イシュルのカイザー・ヴィラには、「少しでもウィーンにいてほしい」と願った夫フランツ・ヨーゼフ1世よりエリザベートに贈られた”プチ・トリアノン宮殿”と呼ばれる別邸「ヘルメス・ヴィラ」があります。

しかしここはエリザベートが少し休憩するだけの場所でした。
またアントワネットもフランス王妃に即位し、皇太子妃とは違った責務を背負いました。
子どもたちが生まれてさらに自由を求め、王妃の責務から逃げてしまいます。
プチ・トリアノン宮殿はアントワネットのひとときの安らぎの場所となりました。こちらは元祖プチ・トリアノン宮殿です。

国民の生活を模して作られた家で国民のような生活をして、背負いきれない王妃の責任に目をつむっていたのです。
しかし最近では、ルイ15世の多大な浪費が重なったことによる財政難とも言われ、アントワネットはただ何も知らない王妃であったのではと言われています。
太陽神ルイ14世、女帝と呼ばれたマリア・テレジア…やはり重なる点はたくさんあります。
二人は慣習がない嫁ぎ先でも入浴も好みましたので、本当に似ていますね。
エリザベートとアントワネットが求めたもの
オーストリア皇后、フランス王妃。二人は国の最高位であり魅力的な身分の女性でした。
しかし二人が求めたものは、「愛」と「安らぎ」の他にあったでしょうか。
16歳で皇妃となり、世継ぎを産むことが最大の仕事だったエリザベート。
14歳でフランスに嫁ぎ、母である女帝マリア・テレジアからも世継ぎを産むことを急かされたアントワネット。
そこに“自分”という「あるがままの存在」を認めてもらえなかった。
ホッとできる場所や暖かな真実の愛情を大人になっても欲した。
美しい宝石を身につけても煌びやかなドレスに身を包んでも、二人はけして満たされることがなかったのです。
エリザベートは美への執着に走り、アントワネットは夫とは違う男性へ思慕を抱く。
エリザベートは政略結婚とはいえ恋愛結婚に近かったし、アントワネットは何不自由なく育った。
それにも関わらず、二人は居場所を探し続けたのです。
悲劇的な最期まで似ているエリザベートとアントワネット

皇妃エリザベートは長女ゾフィーを亡くし、世継ぎの息子ルドルフ皇太子にも先立たれてしまいます。
そして自分も待ち望んでいたかのように、旅先で暗殺されるのです。
アントワネットは言わずもがな。王太子ジョゼフも病に倒れ、早世します。
そして月日は経ち、フランス革命の渦の中、夫や子どもたちと引き離され、夫ルイ16世の亡きあと裁判を受け、処刑されてしまいます。
エリザベートはそこまで敬虔なカトリック教徒ではなかったものの、アントワネットは最後の最後まで夜の祈りを忘れませんでした。
そして二人は息子や夫の死後、喪服を身につけ続けたといいます。
生きた時代は違えど、類似する点も多かったエリザベートとアントワネット。
エリザベートの夫フランツ・ヨーゼフ1世は、マリア・テレジアの直系の子孫です。
フランツ・ヨーゼフ1世にとって、マリア・テレジアは、自身を含めると5代前の高祖母。
アントワネットはその娘なので、4代前の大叔母(高祖叔母)になります。
さらに、エリザベートの祖父で初代バイエルン王マクシミリアン1世ヨーゼフの最初の妻アウグステ・ヴィルヘルミーネ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタットは、フランス出身の女性でした。
そしてなんと文通相手であったアントワネットに謁見したこともあると言われています。
その女性アウグステ・ヴィルヘルミーネがバイエルン王家、マクシミリアン1世ヨーゼフに嫁ぎ、時代はナポレオンの栄枯へと移り変わっていく。
エリザベートの母ルドヴィカの育った、バイエルン王家とフランス王国との繋がりが浮かぶところでしょう。

さらに時は流れて、1854年、エリザベートはオーストリアに嫁ぎ、アントワネットの子孫を次世代に繋ぎました。
こうしてハプスブルク家の運命に翻弄されながらも、二人は懸命に生きたのです。
歴史的にも繋がりがあった皇妃エリザベートとマリー・アントワネット。
エリザベートとアントワネットが求めた本当の安息の地は、二人が亡くなったあとにやってきたのかもしれません。
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脚注
- Franz Schrotzberg 作 「Kaiserin Elisabeth von Österreich 1855」
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詳しくはこちら ↩︎ - Jean-Étienne Liotard 作 「Archduchess Maria Antonia – Schönbrunn, Study and Salon of Franz Karl」
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詳しくはこちら ↩︎ - Dessiné par Henri Courvoisier-Voisin (1757-1830) et gravé par Michon (17..-18..) 作 「Vue du Temple de Vénus & du château du petit Trianon」
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詳しくはこちら ↩︎ - Jacques-Louis David 作 「Marie Antoinette on the Way to the Guillotine」
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著作権の保護期間が著作権の生存期間プラス100年以下であるその他の国や地域において、パブリックドメインです。
詳しくはこちら ↩︎ - Leopold Horowitz 作 「Kaiserin Elisabeth 1893」
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著作権の保護期間が著作権の生存期間プラス70年以下であるその他の国や地域において、パブリックドメインです。
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