このページは、「皇妃エリザベートがフランツ・ヨーゼフ1世と結婚するまで」をタイムライン(年表)で追う記事です。
エリザベート(愛称シシィ)がどのようにしてハプスブルク家に嫁いだのかが分かり、追体験できます。
皇妃エリザベートは、フランツ・ヨーゼフ1世に見初められて婚約、結婚しました。
二人は婚約をするも、薔薇色の婚約生活とはいかず、エリザベートは結婚までにさまざまな準備を必要としました。
オーストリア帝国・ハプスブルク家に嫁ぐため、婚約からたったの8カ月で、皇后となるためのお妃教育を受けなければならなかったのです。
エリザベートの持参品などの準備にも、母ルドヴィカが苦労します。
時代は1848年、1849年。ヨーロッパ各地で起きた革命によって、荒れた世の中の真っ只中に生まれた二人。
さらにクリミア戦争の勃発寸前での婚約〜結婚劇です。
エリザベートがハプスブルク家に嫁ぐまでを、ぜひ時系列のタイムライン(年表)でお楽しみください。
この記事は、製作途中です。
しかし完成までまだ少し時間がかかるため、途中ですが公開しました。
全てを丁寧に作っているため、他の記事も含め、お待ちいただけると幸いです。
2025年9月9日 運営者アンナベレ
非常に濃厚なため、じっくりお読みいただくために、ブックマークを推奨いたします。

エリザベートとフランツ・ヨーゼフ1世の結婚までのタイムライン
エリザベートがフランツ・ヨーゼフ1世と結婚するまでのタイムライン(年表)です。
※このページの参考文献については、下記 からご覧ください。
※皇妃エリザベートの生涯については シシィ伝 をご覧ください。(少しずつ制作中)
1830年8月18日
フランツ・ヨーゼフ1世 誕生
- 場所:
ウィーン、シェーンブルン宮殿 - 概要:
フランツ・ヨーゼフ・カール(後のフランツ・ヨーゼフ1世)が、オーストリア大公フランツ・カールとゾフィー大公妃の長男として生まれる。
ゾフィー大公妃は、5〜6回の流産を乗り越えての出産であった。
1837年12月24日
エリザベート 誕生
- 場所:
ミュンヘン、ヴィッテルスバッハ家の父マクシミリアン・ヨーゼフ公爵の館(マクシミリアン・パレス) - 概要:
エリザベート・アマーリエ・オイゲーニエ(愛称シシィ)が、バイエルン公マクシミリアン・ヨーゼフとルドヴィカ公爵夫人の娘として生まれる。
クリスマスイブの日曜日生まれで、生まれた時から歯が1本(または2本)生えていた(バイエルン王国では「幸運の歯」とされる)。
エリザベートの生まれた12月24日は、亡くなった第2子である兄ヴィルヘルム・カールの生まれた日と同日であった。
エリザベートは、二日後の1837年12月26日、マクシミリアン公爵宮殿内(マクシミリアン・パレス、またはマックス・パレス)の礼拝堂で洗礼を受けた。

1848年6月
エリザベートとフランツ・ヨーゼフの初対面
- 場所:
オーストリア、インスブルック - 概要:
いとこ同士のエリザベートとフランツ・ヨーゼフは、幼少期に初めて対面していたと考えられる。
皇帝一家が革命から逃れインスブルックに避難していたところへ、エリザベートの母ルドヴィカと共に慰問。
この時、エリザベートは10歳、フランツ・ヨーゼフは18歳だった。
フランツ・ヨーゼフ1世は、避難先のイタリアからまだ戻ってきていなかったと言う説もある。
しかし、どちらにせよ、この時はお互いまだ子どもであった。
1848年12月2日
フランツ・ヨーゼフ1世の即位
- 場所:
オルミュッツ(現チェコ共和国オロモウツ) - 概要:
18歳のフランツ・ヨーゼフがフェルディナント1世の退位を受けオーストリア皇帝に即位。
1848年の革命が吹き荒ぶ中で行われ、フランツ・ヨーゼフ1世は多くの期待と課題に向き合う。
戴冠式はなかった。
1852年 冬 クリスマス直前
フランツ・ヨーゼフ1世、プロイセンで皇后候補と会う
- 場所:
プロイセン、ベルリン - 概要:
フランツ・ヨーゼフ1世が、プロイセンで皇后候補マリア・アンナ王女に会う
フランツ・ヨーゼフ1世の皇后候補として、ゾフィー大公妃は、ドイツへの政治的な野心から、プロイセンの王女マリア・アンナを探し出し、二人を実際にベルリンで合わせた。
※ドイツ帝国が成立する前は、ベルリンはプロイセンの首都であった。

フランツ・ヨーゼフ1世はまんざらでもなかった。母ゾフィー大公妃もまたプロイセンに嫁いだ姉エリーゼ(エリザベート)王妃にこの縁談を何とかして欲しいと手紙を書いている。
しかし王女マリア・アンナには秘密裏に婚約者が存在した。
姉エリーゼ(エリザベート)のプロイセンでの立場は弱く、さらにビスマルクの反対もあり、この縁談は叶うことはなかった。
1852年 冬 クリスマス直前、ウィーンに戻る途中
フランツ・ヨーゼフ1世、皇后候補として従姉妹のザクセン王女に会う
- 場所:
ザクセン、ドレスデン - 概要:
フランツ・ヨーゼフ1世がベルリンからウィーンへ戻る途中、皇后候補の従姉妹のザクセン王女シドニーに会う
プロイセン王女マリア・アンナに会ったあと、フランツ・ヨーゼフ1世はウィーンへの帰り道の途中に、ザクセン王女マリア・シドニア・ルドヴィカ(通称:王女シドニア)に会う。
ザクセンには、ゾフィー大公妃の実の双子の妹マリー(マリア・アンナ)がザクセン王妃として嫁いでおり、さらに実の姉アマーリエ・アウグステ(プロイセン王妃エリーゼの双子の妹)が、王太子ヨハンに嫁いでいた。
王女シドニアは、王太子妃アマーリエ・アウグステの娘であり、母親同士が姉妹のため、フランツ・ヨーゼフ1世にとっては従妹にあたる。
プロイセン王女と同じく、王女シドニアはフランツ・ヨーゼフ1世の花嫁候補の一人であり、すでに何度か訪れていたと言われている。

しかしながら、慎重なザクセン側によりこの縁談も進まず、ゾフィー大公妃はザクセンよりも、祖国バイエルンのヴィッテルスバッハ家との結びつきを思いつく。
これにより、エリザベートの姉ヘレーネが、フランツ・ヨーゼフ1世の花嫁候補、そして未来の皇后候補と考えられたのである。
1853年2月18日
フランツ・ヨーゼフ1世 暗殺未遂事件
- 場所:
オーストリア、ウィーン、ケルントナー門稜堡付近 - 概要:
2月18日の正午ごろ、フランツ・ヨーゼフ1世がホーフブルク宮殿より散歩中、軍事訓練を見るため立ち止まったところを、ハンガリー人ヤーノシュ・リベーニに襲われ負傷する。
近くにいた女性が悲鳴をあげ、フランツ・ヨーゼフ1世が気がついたのが幸いした。
侍従武官オンドル大佐が取り押さえ、通りがかった肉屋ヨーゼフ・エッテンライヒが加勢したが、フランツ・ヨーゼフ1世はうなじに深傷を負う。
フランツ・ヨーゼフ1世の傷は、後頭部の骨にまで及んだ。
そのため、実はこの日予定されていたエリザベートの姉へレーネとフランツ・ヨーゼフ1世とのお見合いは中止となる。
フランツ・ヨーゼフ1世の傷が治るまで、約4週間かかったとされる。
1853年8月13日(朝)
ゾフィー大公妃と息子たちがバート・イシュルに出発
- 場所:
ウィーン - 概要:
ゾフィー大公妃と息子カール・ルートヴィヒ、ルートヴィヒ・ヴィクトールが、蒸気船でバート・イシュルに出発。
なお、ゾフィー大公妃の夫フランツ・カール太公は、8月16日火曜日に、ブルケルスドルフ経由の陸路でバート・イシュルに向かう。
1853年8月13日(夜)
フランツ・ヨーゼフ1世、シェーンブルン宮殿からバート・イシュルに向かう
- 場所:
- ウィーン、シェーンブルン宮殿
- 概要:
- オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世、夜間にシェーンブルン宮殿よりバート・イシュルに出発。
当時のバイエルン一般新聞に高位貴族の行動は載っていた。
1853年8月14日
エリザベートと姉へレーネ、母ルドヴィカがバート・イシュルへ出発

- 場所:
ミュンヘン、ポッセンホーフェン城 - 概要:
エリザベート(15歳)と姉へレーネ、母ルドヴィカがポッセンホーフェン城を出発し、バート・イシュルへ向かう。
目的は姉へレーネとフランツ・ヨーゼフ1世のお見合い。
建前上の目的は、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフの23歳の誕生日を祝うためであった。
>> ヘレーネの人物データはこちらから(製作中)
1853年8月15日
フランツ・ヨーゼフ1世、夜の間にバート・イシュルに到着
- 場所:
バート・イシュル、ゼーナウアー館(現バート・イシュル博物館) - 概要:
フランツ・ヨーゼフ1世がバート・イシュルに到着。
1853年8月16日
エリザベートと姉へレーネ、母ルドヴィカがバート・イシュルに到着

- 場所:
バート・イシュル、タラキーニ・グランドホテル(現レジデンツ・エリザベート) - 概要:
エリザベート一行、バート・イシュル到着。
フランツ・ヨーゼフ1世の母ゾフィー大公妃に迎えられる。
ゾフィー大公妃はバート・イシュル外の農家でルドヴィカたちを待っていた。
ルドヴィカたちは8月16日にトラウンシュタインを出発し、ザルツブルクを経由してバート・イシュルへ向かっっていた。
しかしルドヴィカの偏頭痛で到着が遅れ、ゾフィーの準備した初日の段取りが狂う。
荷物と侍女の到着も遅れ、一行は喪服のまま謁見に臨まざるを得ない状況に。
見かねたゾフィー大公妃は、侍女を一人ルドヴィカたちに送り、姪たちの髪だけでも整えられるよう配慮した。
※この当時は薬もなく、ルドヴィカや他の人々も偏頭痛には苦しみ、寝ているしかなかった。
華麗なる主な招待客たち
バート・イシュルへの主な招待客は以下のとおり。
(タラキーニ・グランドホテル:現レジデンツ・エリザベート)
- プロイセン王妃エリーゼ(エリザベート):ゾフィー大公妃やルドヴィカの姉
- バイエルン公爵カール:ゾフィー大公妃やルドヴィカの異母兄、自ら高位貴族を捨てた
- ルートヴィヒ・ヨーゼフ・アントン大公:フランツ・ヨーゼフ1世の大叔父
- ヘッセン大公(ルートヴィヒ3世):ハプスブルク家、ヴィッテルスバッハ家の親戚筋
- ルドヴィカ公爵夫人:バイエルン公爵夫人、ゾフィー大公妃の妹
- ヘレーネ・カロリーネ(ネネ):ルドヴィカの長女
- エリザベート(シシィ):ルドヴィカの次女
ゾフィー大公妃はバート・イシュルのタラキーニ・グランドホテル(現レジデンツ・ホテル)に、招待した親族のための部屋を予約していた。
プロイセン王妃エリーゼ(エリザベート)の随行人は25人もいたという。
ハプスブルク家側から出席した主な親族たちは以下のとおり。
(ゼーナウアー館:現バート・イシュル博物館)
- フランツ・ヨーゼフ1世:オーストリア帝国皇帝
- ゾフィー大公妃:フランツ・ヨーゼフ1世の母、ルドヴィカの姉
- オーストリア皇后カロリーネ・アウグステ:バイエルン王女の称号を持つ、ゾフィー大公妃やルドヴィカの異母姉。故オーストリア皇帝フランツ1世と結婚した。エリザベートの伯母。
- フランツ・カール大公:ゾフィー大公妃の夫、フランツ・ヨーゼフ1世の父
- カール・ルートヴィヒ大公:フランツ・ヨーゼフ1世の弟、ゾフィー大公妃の息子
- ルートヴィヒ・ヴィクトール大公:フランツ・ヨーゼフ1世の末の弟、ゾフィー大公妃の息子
皇帝一家たちは、バート・イシュル市長ヴィルヘルム・ゼーナウアーの館を一軒まるごと借り切っていた。
オーストリア皇后カロリーネ・アウグステは、すでに未亡人皇后であり、フランツ・ヨーゼフ1世の結婚が成立すると、名目上は皇后ではなくなった。
しかし生涯にわたり皇后(摂政未亡人皇后)としての称号が使われた。
すでに宮殿に住んではいなかったものの、未だに強いその権威と影響力から、出席したものと考えられる。
>> なぜルドヴィカとヘレーネ、エリザベートは喪服でやってきたのか?(製作中)
>> レジデンツ・エリザベートはこちらから!(製作中)
1853年8月17日
フランツ・ヨーゼフ1世、エリザベートに再会、恋に落ちる
- 場所:
バート・イシュル、ゼーナウアー館(現バート・イシュル博物館) - 概要:
フランツ・ヨーゼフ1世(23歳)とエリザベート(15歳)が、ゾフィー大公妃によるお茶会(ティータイム、家族の集まり)に呼ばれ再会。
フランツ・ヨーゼフ1世は、エリザベートに惹かれる。
ゾフィー大公妃に、息子である皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、エリザベートについて夢中で語り始めた。
ゾフィー大公妃の日記によれば、この日(8月17日)の朝、息子である皇帝が”シシィ”を見ていることに気がついたと認識している。
フランツ・ヨーゼフ1世は狩りに出かけるのをやめ、従妹(エリザベート)のそばにいることを選んだことで、親族や仕える者たちは皆、皇帝が本気で恋に落ちたことを察した。
エリザベートの母ルドヴィカは、バート・イシュルに到着後もひどい偏頭痛が続いて寝込んでいたため、このことを理解していたかは不明である。
1853年8月17日 夜
舞踏会の夕べ(ダンスパーティー)が催される
- 場所:
バート・イシュル、ゼーナウーアー館(現バート・イシュル博物館) - 概要:
舞踏会の夕べ(ダンスパーティー)が催される。
エリザベートたち一行は、やっと舞踏会にふさわしいドレスに身を包んで現れた。
ヘレーネは白い絹のドレス、髪にはツタ(アイビー)を飾っていた。
エリザベートは白とピンクのドレス姿で、髪は三つ編みであった。
エリザベートにとっては初めての公の舞踏会であったため、皇帝の副官と踊り、侍女に次のように言ったという。
「ネネ(ヘレーネの愛称)はたくさんの人に会っているからいいけど、私は違う。とても恐くて、何にも食べられなかったわ」
しかしその後フランツ・ヨーゼフ1世はついにエリザベートにダンスを申し込む。
そして花束を手渡した。
皇帝が花束を渡すのは求婚を意味する──それをエリザベートだけが知らなかった。
エリザベートと初めてダンスを踊ったのは、フランツ・ヨーゼフ1世の副官フーゴー・フォン・ヴェックベッカー男爵。
このときエリザベートは、未来のウィーンでの教育係であるエステルハージ伯爵夫人とも会話を交わしている。
母ルドヴィカ自身の侍女カミラ・オッティングも、バート・イシュルには随行していて、その後ウィーンにも同行する。
1853年8月18日
フランツ・ヨーゼフ1世、23歳の誕生日のプロポーズ
- 場所:
バート・イシュル、ゼーナウアー館(現バート・イシュル博物館)、ヴォルフガング湖 - 概要:
家族だけのデジュネ(昼食)に、皇帝の隣に座り、エリザベートも参加。
大雨の中、ヴォルフガング湖へ家族たちと小旅行に出向く。
※ルドヴィカは偏頭痛が治らず参加しなかったとされる。
エリザベートはこのような場に慣れておらず、皆との会話に苦労したが、ゾフィー大公妃はヘレーネと気さくに会話をした。
しかし雨の小旅行から戻るとフランツ・ヨーゼフ1世は決断した。
母であるゾフィー大公妃に、
「どうかあなたの妹ルドヴィカ公妃に探りを入れてほしい、シシィは私と結婚してくれるだろうか?」
「しかし、誰かが説得してはならない。彼女(シシィ)自身の自由な意思でなくてはならない」
と望んだ。
ゾフィー大公妃はルドヴィカに伝え、驚いたルドヴィカもシシィ──エリザベートに話して聞かせる。
「あなたは皇帝の愛を受け入れられる?」
エリザベート、人生の選択の夜であった。
姉ヘレーネは、フランツ・ヨーゼフ1世の注目が妹エリザベートに向けられたことに大きなショックを受け、落ち込む。
同時に、以前からエリザベートに可愛らしい恋愛感情を抱き、手紙のやり取りをしていたフランツ・ヨーゼフ1世の弟カール・ルートヴィヒも、兄フランツ・ヨーゼフ1世がシシィを選ぶことに、ため息をつく結果となる。
ドイツ南西部にあるウルムに駐屯するオーストリア占領軍より、全駐屯軍参加のもと、皇帝陛下の誕生祭が厳粛に行われた。
午前5時:ヴィルヘルムスブルク要塞より34発の祝砲で祝日開始
午前10時頃:ミュンスター広場での大規模な教会パレード
教会での厳粛な感謝の讃美歌(テ・デウム):33発の祝砲(ゲンタイム伯総督に率いられた後に教会に向かった。
その後、ホテル(ツム・クローンプリンツェン)の新しいホールで大きな昼食会が開かれ、33発の礼砲のもと、総督より皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の健康への乾杯が行われた。
下士官団もまたこの日を祝った。
フランクフルトの駐屯地でも祝われた。
ヘレーネは、帰りたいと願ったほど落ち込んだ。
伯母ゾフィー大公妃から、ダイヤモンドとトルコ石でできた豪華な十字架を贈られても、決してヘレーネの慰めにはならなかった。
【おすすめ!】この時のヘレーネの気持ちは、以下の動画で追体験できます。
>> ヘレーネが落ち込んだ本当の理由とは?(製作中)
>> カール・ルートヴィヒはその後どうなったのか?彼の人物データはこちら!(製作中)
1853年8月19日
エリザベートとフランツ・ヨーゼフ1世の婚約内定と承認
- 場所:
バート・イシュル、ゼーナウアー館(現バート・イシュル博物館) - 概要:
朝7時45分、ゾフィー大公妃は妹ルドヴィカからの知らせ「シシィは結婚に同意する」旨の文面を受け取る。
そのわずか15分後、喜び勇んだフランツ・ヨーゼフ1世が、エリザベートたちが宿泊中の、ホテル・タラキーニを尋ねた。
フランツ・ヨーゼフ1世がエリザベートとの婚約を内定し、両家の承認を得る。
- エリザベートの父マクシミリアン・ヨーゼフ公爵、バイエルン王家に電報で知らせが入る。
- 父マクシミリアン・ヨーゼフ公爵は急ぎバート・イシュルへ向かう。
- バイエルン王家ではルートヴィヒ1世が日記に喜びを綴っていたとされる。
エリザベートの母ルドヴィカは、不在の夫マクシミリアン・ヨーゼフ公爵に知らせるため、当時としては画期的な電磁式電信(エレクトロマグネティッシュ・テレグラフィー)を使用した。
これは後の「電報」であった。
” 皇帝はシシィの手を求め、あなたの承諾も望んでいます。私たちは皆、幸せです “
こうしてマクシミリアン公爵は驚くほど早く知らせを受け取ることができ、長男ルートヴィヒ・ヴィルヘルムを伴ってバート・イシュルへ向かうこととなる。
1853年8月19日 午前11時
皇帝やエリザベートたち一同、教区教会で祝福を受ける

- 場所:
バート・イシュル、聖ニコラウス教会、ハルシュタット - 概要:
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世やエリザベートたち一同が教区教会(聖ニコラウス教会)に向かい、二人は祝福を受ける。
この教会では、後にフランツ・ヨーゼフ1世とエリザベートの末娘マリー・ヴァレリーが結婚式を挙げることになる。
エリザベート、「あの方がただの仕立屋さんだったらよいのに!」と発言。
その発言の背景は、エリザベートなりの緊張を感じたためと考えられる。
ゾフィー大公妃は当初、年齢差や準備不足を心配したが、息子の意思を尊重する。
婚約後、両家の家族たちと共にハルシュタットへ馬車で遠乗りに出かける。(今回はルドヴィカも同行)
夕暮れにバート・イシュルに戻ると、町は全体がろうそくの光で輝きに包まれ、バート・イシュルの山、シリウスコーゲルでは、新郎新婦のイニシャルが花嫁の花冠に囲まれるように輝いていた。
恋に眩い皇帝を見て、ゾフィー大公妃の心も高揚していた。
ゾフィー大公妃は、双子の妹マリーに手紙を書き送っている。
“ほんの数時間前まで、あまりにも大きな幸福が私たちにもたらされて、もう何日なのか、何時なのかもわからないほどです。”
しかしエリザベートは婚約の重みに戸惑いを見せ始めた。
涙を流し、公式なお披露目の場では、一言も言葉が出なかった。
母ルドヴィカだけは、それを見逃さなかった…。
>>エリザベートはフランツ・ヨーゼフ1世の求婚を拒否できたのか?(製作中)
>>エリザベートが仕立て屋さんと結婚したらどんな生活になったのか?(製作中)
1853年8月19日以降
ルドヴィカ、エリザベートを守るようになる
- 場所:
バート・イシュル、ゼーナウアー館(現バート・イシュル博物館)、タラキーニ・グランドホテル(現レジデンツ・エリザベート) - 概要:
エリザベートは少しずつ見知らぬ多くの人々に慣れてくる。
しかし母ルドヴィカと父マクシミリアン公爵には、夜更かし続きの生活が、エリザベートの体力を次第に奪っているように感じていた。
母ルドヴィカは、婚約者で皇帝であるフランツ・ヨーゼフ1世にも対しても、ご遠慮いただくことをためらわないよう振る舞った。
深夜まで続いた舞踏会の翌朝8時に、皇帝はルドヴィカ一行が宿泊するタラキーニ・グランドホテルに姿を現し、婚約者に会おうとした。
「エリザベート公女はまだ眠っています」
フランツ・ヨーゼフ1世には、そう告げられただけであった。
ルドヴィカは「私の娘エリザベートに課せられる大きな使命がどれほど不安なものか」「幼児教室からそのまま玉座に上がるようなものですから」と語っていたと言われている。
未来の皇后に対するウィーンの貴婦人たちの、おそらく冷たい視線にも思いを巡らせ、静かに心を痛めていた。
そのためルドヴィカと娘たちがバート・イシュルを予定よりも早く離れるべきか、しばらくの間検討された。
結局、全員が8月末まで滞在することとなり、フランツ・ヨーゼフ1世からは高価な贈り物が次々と届くようになっていく。
1853年8月21日
バイエルン紙、フランツ・ヨーゼフ1世の婚約を報じる

- 場所:
バイエルン王国 - 概要:
バイエルンの一般新聞アルゲマイネ・ツァイトゥング(Allgemeine Zeitung)が、フランツ・ヨーゼフ1世の婚約を報じる。
当時、新聞では数日遅れでの報道であった。
電信報告(Telegraphischer Bericht)
引用元:Allgemeine Zeitung, Nr. 233, 21. August 1853.
ミュンヘン、8月20日。
8月19日付のイシュルからの電報によれば、オーストリア皇帝の婚約が伝えられた。
花嫁は、バイエルン公マクシミリアンの次女、エリザベート公女である。
──────
ドイツ語
Telegraphischer Bericht.
München, 20 Aug.
Eine Depesche aus Ischl vom 19 Aug. meldet die Verlobung des Kaisers von Oesterreich, die Braut ist die Prinzessin Elisabeth, zweite Tochter des Herzogs Mar in Bayern.
バイエルン州立図書館デジタルアーカイブ(Bayerische Staatsbibliothek, digiPress)7
※当時の新聞は紙面の都合や活字の制限から、人物名は略して書いている場合がある。
例えば、「バイエルン公マクシミリアン」は、”Herzogs Mar in Bayern.” のみ。
>> 皇妃エリザベートがバイエルンを出発した際には、どのように報じられたのか?(製作中)
>> ウィーンでは皇帝の婚約や結婚はどのように報じられたのか?(製作中)
1853年8月31日〜9月の初め
エリザベートたちは帰国後ポッセンホーフェン城へ
フランツ・ヨーゼフ1世 婚約発表
- 場所:
バート・イシュルからポッセンホーフェン城へ
ウィーン、ホーフブルク宮殿 - 概要:
バート・イシュルとからはザルツブルクでそれぞれの道へと別れた。
エリザベートたち一行はバート・イシュルからミュンヘンに戻り、数日滞在したあと、母ルドヴィカはエリザベートと姉へレーネを連れて、シュタルンベルク湖畔のポッセンホーフェン城へ向かう。
バート・イシュルから戻る道中も、エリザベートは祝福を受け続け、感動と戸惑いが心の中で踊り、どうして良いか分からない様子だった。
母ルドヴィカは、バート・イシュルでのこれまでにない慌ただしい日々で疲れたエリザベートを休ませるつもりであった。
“シシィは、あのような生活には、まだ全く慣れていません。特に、遅い時間に眠るということには”
1853年8月24日、フランツ・ヨーゼフ1世 婚約を公式発表。
国民の間で祝福ムードが広がる。
メディアが大々的に報道する。
結婚式は翌年1854年4月末に執り行われることが、すでに決まっていた。
ルートヴィヒ1世の孫バイエルン公女アウグステは、婚約発表のすぐ後に、気を紛らすため従姉妹であるヘレーネを自宅に招待しようと申し出た。
しかしルドヴィカは「ヘレーネ自身が、妹との残された時間を過ごすことを望んだ」として断っている。
後年エリザベートは、バート・イシュルでの婚約について、恨みがましく述べるようになる。
“結婚とは不条理な制度です。15歳の子どもが売られて、理解もせぬままに一歩踏み出す。そしてこのことを三十年、それ以上も後悔し続け、もう解くこともできないのですから”
1853年9月半ばごろ
ゾフィー大公妃、バート・イシュルに別荘(カイザー・ヴィラ)を購入する

- 場所:
バート・イシュル - 概要:
ゾフィー大公妃は婚約の祝いに、エリザベートとフランツ・ヨーゼフ1世にバート・イシュルで別荘(カイザー・ヴィラ)を購入する。
エリザベートとフランツ・ヨーゼフ1世の婚約後すぐに、ゾフィー大公妃は医師エドゥアルト・マスタリエ博士やメッテルニヒが夏に滞在していたバート・イシュルの館・旧エルツ邸を、婚約した二人に贈るため、購入する交渉を開始したという。
ゾフィー大公妃は、婚約から約4週間で購入した旧エルツ邸を改築、していくこととなる。(全ての改築は、二人の結婚に間に合ってはいない。)
後にカイザー・ヴィラとなるこの館は、上空から俯瞰してみるとエリザベートの「E」が浮かび上がり、エリザベートを象徴していると言われている。
結婚した後訪れた若き皇帝と皇后は、このカイザー・ヴィラを非常に気に入り、公式に皇帝の夏の離宮となった。
1853年9月〜1854年4月中旬にかけて
エリザベートのお妃教育と結婚準備開始

- 場所:
ミュンヘン、マクシミリアン・ヨーゼフ公爵の館(マクシミリアン・パレス) - 概要:
秋に家族がポッセンホーフェンから戻ると、エリザベートには大掛かりなお妃教育と学習プログラムが組まれた。
今までも、母ルドヴィカが夫マクシミリアン公爵に相談し承認を得て、子どもたちの教育を行なっていた。
しかしお妃教育は、決して片手間にできることではなかった。
宮廷エチケット、宮廷儀礼、言語、歴史、文学などの学習が開始される。
ウィーンからはミュンヘンに使者が来るようになり、結婚準備の綿密なやり取りが始まる。
実際にエリザベートがお妃教育を受けるのは、夏の離宮ポッセンホーフェン城から帰ってからとなるが、オーストリア史は最重要項目であった。
- オーストリア帝国史
-
父マクシミリアン公爵は、オーストリア帝国史を学ばせるため、ミュンヘンに住むハンガリー人学者ヨハン・マイラート・フォン・セーケイ伯爵を選んだ。
このマイラート伯爵は週に3回、歴史の講義を行った。
熱心なマイラート伯爵の講義はエリザベートに強い印象を残した。姉のヘレーネ、弟のカール・テオドール、母ルドヴィカの従者たちも、マイラートの講義を活用して教養を深めたほどであった。
- 外国語
-
外国語の習得に重点が置かれ、エリザベートにはイタリア語を学ぶための教師と、週4回の読解練習が加えられた。
当時の宮廷で話すフランス語も向上させる必要があったため、語学教師に加えて、会話と読書の練習を行う相手が用意された。
- ダンス
-
父マクシミリアン公爵は、フリードリヒ・ホルシェルトという年老いたバレエ教師を呼び寄せ、マイラート伯爵が来ない晩には、エリザベートにダンスのレッスンを行った。
- ウィーンの宮廷儀礼
-
エリザベートは、オーストリア宮廷儀礼や、宮廷での公式行事のおける厳密な手順や作法について集中的に学んだ。
- 乗馬
-
エリザベートは乗馬の練習も行った。
乗馬は貴族の嗜みであったためである。エリザベートは15歳になる1853年4月、姉のヘレーネおよび教育係であるカミラ・オッティング(バート・イシュルへも同行した)と共に、初めて乗馬のレッスンは受けていた。
後にエリザベートは騎手並みに上達していく。
- その他の準備
-
- 肖像画の制作(のちにエリザベートの美貌を世に広めたとされる)
- 婚約指輪の制作(フランツ・ヨーゼフ1世自らデザインに関わったと考えられる)
オーストリア史を教えたヨハン・マイラート伯爵はハンガリー人であり、これがエリザベートのハンガリー愛、政治観へ繋がっていたと推察される。
しかし、エリザベートたちにオーストリア史を教えた、この素晴らしきマイラート伯爵は、その後 経済的に困困窮し、娘ヘンリエッテと共に非業の死を遂げることとなる…。
>> 皇妃エリザベート、美への執着はこちら(制作中)
1853年10月10日
フランツ・ヨーゼフ1世、エリザベートに会うためミュンヘンに来訪
- 場所:
ミュンヘン、ポッセンホーフェン - 概要:
フランツ・ヨーゼフ1世がエリザベートに会いにミュンヘンに来訪。
バート・イシュルでの日々の後、エリザベートに会いたくてたまらず来訪する。
フランツ・ヨーゼフ1世は、バイエルン国王夫妻への短い表敬訪問をする。
その後、すぐにポッセンホーフェンへと向かった。
エリザベートは、バート・イシュルから帰国後、ミュンヘンに数日滞在した後、11月まで母ルドヴィカや兄弟姉妹と共に、毎年恒例のポッセンホーフェンに滞在中であった。
厳しいお妃教育は、実際にはポッセンホーフェン滞在中は行われず、ポッセンホーフェンでの最後の6週間、エリザベートは婚約前と変わらない日常を過ごしていたと言われる。
しかしこれが、その先のエリザベートの詰め込み教育に繋がっていき、全てにおいて準備不足となったと言われている。
クリミア戦争へと発展する、非常に国際的で重大問題が差し迫っていたが、フランツ・ヨーゼフ1世はミュンヘンを訪れる。
ゾフィー大公妃はエリザベートの外見に気を配るようになる。
フランツ・ヨーゼフ1世はウィーンのゾフィー大公妃に向けて「あなたの素晴らしい助言のおかげで、シシィの歯は真っ白になった」と報告している。
またゾフィー大公妃は、エリザベートが乗馬をあまりしないようにと伝えるよう言ったが、フランツ・ヨーゼフ1世は「これを実行するのは難しそうです」と返している。
>> フランツ・ヨーゼフ1世の失態、恋に溺れた若き皇帝 はこちら(製作中)
1853年12月 クリスマス直前
フランツ・ヨーゼフ1世、エリザベートの誕生日(12月24日)にミュンヘンへ訪れる
- 場所:
ミュンヘン、マクシミリアン・パレス(公爵家の館) - 概要:
フランツ・ヨーゼフ1世がエリザベートの誕生日(12月24日)とクリスマスを、エリザベートとその家族たちと過ごすためミュンヘンに訪れる
ルドヴィカはエリザベートの準備のため、多忙を極めていた。
これは、婚約後ポッセンホーフェンで休息しすぎたこととも関係している。
そこへ皇帝来訪の知らせを受け、緊張し、フランツ・ヨーゼフ1世が到着すると偏頭痛を発症し、倒れてしまう。
ルドヴィカの多忙は以下のとおり。
- 火曜と木曜の1時から2時を除いて、エリザベートにつきっきり
- 毎日エリザベートが食卓につく午後2時を除いてつきっきり(ルドヴィカたちは午後3時に食事をする)
- 自分の身支度にはほとんど時間をかけていない
フランツ・ヨーゼフ1世は叔母であり、未来の花嫁の母の容態を、母ゾフィー大公妃に「彼女(ルドヴィカ)はまたひどく頭を痛めておられます」と報告している。
フランツ・ヨーゼフ1世からエリザベートへ
- フランツ・ヨーゼフ1世自身が選んだ宝石
- 旅行用の小さな銀の朝食セット(Eの皇帝冠が刻まれたもの)
- オウム
- その他多くの贈り物
ゾフィー大公妃からエリザベートへ
- 生花のバラとブーケ(冬では大変珍しいもの)
マクシミリアン・ヨーゼフ公爵家からフランツ・ヨーゼフ1世へ
- エリザベートの肖像画:
15歳のシシィが、ダムサドル(女性用鞍)にまたがりポッセンホーフェン城の前で馬に乗っている姿を描いたもの。
歴史画家カール・テオドール・フォン・ピロティ、馬を専門とする画家フランツ・アダムの合作。
窓の桟に止まっている3羽の鳩は、ポッセンホーフェン城のシシィの部屋を示している。

この絵画は、2017年に150万ユーロで競売にかけられた。
仮に「1ユーロ=170円」として計算すると、150万ユーロは日本円で2億5,500万円である。
※買い手は非公開
エリザベートはゾフィー大公妃に対し贈り物のお礼状を書かなければならなかった。しかし自分の姑となる伯母への手紙の書き方はとても堅苦しいものにしなければならなかった。
エリザベートが唯一喜んだ贈り物であるオウムは、後にゾフィー大公妃に取り上げられてしまったとされている。
>> この時代の女性用の乗馬服は危険だった!どのような作りになっていたのか?(製作中)
1854年2月 中旬
母ルドヴィカ、エリザベートの持参品(トルソー)の準備に追われる
- 場所:
ミュンヘン、マクシミリアン・パレス(公爵家の館) - 概要:
エリザベートの結婚持参品(トルソーと呼ぶ)の準備に、母ルドヴィカが追われる。
親友グストヒェンに、「アウグステ・フォン・ロッテハンとカミラ・オッティングが大急ぎで持参品(トルソーと呼ぶ)の準備に追われていることを手紙で伝えている。
1854年3月 結婚式の約4週間前
フランツ・ヨーゼフ1世、エリザベートに会いに三度バイエルンを訪れる
- 場所:
ミュンヘン、マクシミリアン・パレス(公爵家の館)、ポッセンホーフェン城 - 概要:
フランツ・ヨーゼフ1世がエリザベートに会いに三度バイエルンを訪れる。
皇帝はダイヤモンドとオパールでできた、素晴らしく、そして非常に高価なティアラと、それに合わせたネックレスとイヤリングのセットを贈った。
この時贈られた宝飾品は、かつてゾフィー大公妃が自らの結婚式で身につけたものであった。
エリザベートは再び丁重にお礼状を書き、もう少しで姑となる伯母に感謝する…それも非常に丁寧に。
国際情勢がますます緊張していく最中であるにも関わらず、フランツ・ヨーゼフ1世はエリザベートの家族とともに、シュタルンベルク湖のポッセンホーフェンへの小旅行で、陽気な日々を過ごした。
母ゾフィー大公妃には、次のように報告している。
“私たちはごく身内だけでした…義母(ルドヴィカ)、シシィ、ネネ(ヘレーネ)、マリー、シュパッツ(マティルダ)、ルイ(ルートヴィヒ)、ガッケル(カール・テオドール)、それと私…とても陽気でした…”
※11歳であったエリザベートの妹ゾフィー・シャルロッテも同席していた可能性が高い
フランツ・ヨーゼフ1世の恋に溺れた状態が、後にエリザベートを孤独にしていくこととなる。
そしてこの小旅行が、ルドヴィカが娘エリザベートと過ごす最後の、本当に気楽な日々であった。
この当時、フランツ・ヨーゼフ1世がミュンヘンに訪れるには直結する鉄道もなく、次の経由地を回り、到底1日では着くことができなかった。
- プラハ
- ドレスデン
- ライプツィヒ
- ホーフ
しかしフランツ・ヨーゼフ1世は、3回もミュンヘンを訪れたのである。──国際情勢で急ぎウィーンに戻ることがあったとしても。
1854年 春
エリザベート体調不良、母ルドヴィカは娘との別れを恐れるようになる
- 場所:
ミュンヘン、マクシミリアン・パレス(公爵家の館) - 概要:
結婚式間近、エリザベートの体調はすぐれない。
そして母ルドヴィカもまた、エリザベートとの別れに対し、大きな抵抗を感じていた。
この頃、愛するポッセンホーフェンとの別れが辛いものであったとされる、エリザベートが綴った詩がある。
内容から見て、ポッセンホーフェン城で書かれたものと思われる。
“さようなら、静かなこの空間たちよ
さようなら、古いこの城よ
そして最初の恋の夢たちよ、
湖の懐に穏やかに眠っていて。
さようなら、歯を落とした木々たちよ
さようなら、あらゆる低木たち、小さなものも大きなものも
あなたたちが新たな芽を吹くころには
私はこの城から遠く離れていることでしょう”
さらに母ルドヴィカは、厳格な規則だらけの宮廷生活も、華やかな衣装も好まなかったため、ウィーンでの盛大な結婚式もストレスであった。
人前に出て見られることは、子どもの頃から苦痛であったのである。
ルドヴィカはザクセンに嫁いだ姉のマリーに、次のように打ち明けている。
“考えるのも嫌。何が起こるのかわからない。たたでさえシシィとの別れは考えたくないし、その時をできるだけ先延ばしにしたいのです”
しかし、エリザベートの出発日は、1854年4月20日に定められたのであった。
1854年4月 出発直前
元バイエルン王ルートヴィヒ1世と、その妻テレーゼたちとの別れの晩餐会
- 場所:
ミュンヘン、ミュンヘン・レジデンツ(王宮) - 概要:
伯父で、退位したバイエルンの元王ルートヴィヒ1世とその妻テレーゼたちとの晩餐会が催される。
この晩餐会で、元王ルートヴィヒ1世は、嫁ぐ姪に素晴らしい贈り物をする。
元王ルートヴィヒ1世は、遠く離れた地でエリザベートがいつでも祖国と家族を思い出せるようにと、宮廷画家ヨーゼフ・シュテイラーにエリザベートの兄弟姉妹を描いた絵画を依頼した。

肖像画 左から:
ゾフィー・シャルロッテ、マクシミリアン・エマヌエル、カール・テオドール、ヘレーネ、ルートヴィヒ・ヴィルヘルム、マティルダ・ルドヴィカ、マリー・ゾフィー・アマーリエ。
画家ヨーゼフ・シュテイラーの計らいにより、ゾフィー・シャルロッテはお気に入りの人形、マクシミリアン・エマヌエルは太鼓を、マティルダ・ルドヴィカとマリー・ゾフィー・アマーリエは好きなペット(オウムとキジバト)を一緒に描いてもらうことができた。
この日の他にも、エリザベートの予定は、さまざまな親族への別れの訪問で埋まっていた。
1854年4月19日 出発前夜
1854年4月20日
エリザベート、ウィーンに向けて出発
- 場所:
ミュンヘン、マクシミリアン・パレス(公爵家の館) - 概要:
エリザベート、ついにオーストリア皇后となるべく、四頭立ての馬車でウィーンに向けて出発する。
公爵家の中の礼拝堂でミサを済ます。
公爵家の中では、エリザベートはすでに涙が流れ始めていた。
この心の優しく慈悲に溢れた少女エリザベートは、使用人一人ひとりに別れの握手や記念品を渡していたと言われている。
「バイエルン公女」の間にできる、最後の距離感であった。
バイエルンでは、朝早くからミュンヘン市民たちは外へ出て、オーストリア皇后になろうとしている若き公女エリザベートを一目見ようと、集まっていた。
エリザベートを見送った人物と同行した人物
午前8時。高位の親族たちがマクシミリアン・パレスに集まり、別れの挨拶をする。
このとき名前が出てくる高位親族は次のとおり。
- バイエルン王マクシミリアン2世:エリザベートの従兄
- バイエルン王妃マリー:プロイセン王国ヴィルヘルム王子の第4女にしてマクシミリアン2世の妻
- 元バイエルン王ルートヴィヒ1世:エリザベートの伯父、ルドヴィカの異母兄
- 元バイエルン王妃テレーゼ:元バイエルン王ルートヴィヒ1世の妻
- 王家のほかの王子・王女たち、ヴィッテルスバッハ家の親族たち
※マクシミリアン2世、元王ルートヴィヒ1世は、オーストリア軍の軍服姿で見送る。
※来賓として付いていくした者もいた可能性がある。
エリザベートは、親しい親族や使用人たちとも別れ出発する。
このときエリザベートに同行した者として名前が出てくるのは次のとおり。
- 母ルドヴィカ:エリザベートの母、バイエルン王女、ゾフィー大公妃の妹
- 父マクシミリアン・ヨーゼフ公爵:エリザベートの父、ヴィッテルスバッハ家公家
- 姉ヘレーネ:エリザベートの姉、愛称ネネ
- 兄ルートヴィヒ・ヴィルヘルム:エリザベートの兄、数日前に少佐に昇進した。愛称ルイ
- 弟カール・テオドール:エリザベートの弟、愛称ガッケル。
- アウグステ・フォン・ロッテハン:ルドヴィカの上級侍女でバイエルン貴族の娘、愛称グストヒェン
- カミラ・フォン・オッティング:バイエルン貴族・オッティング家の貴族の娘、ルドヴィカの侍女
- 医師フィッシャー博士:エリザベートの主治医的な立場の医師
- そのほか数人の随行人たち:侍女や教育係、侍従など
それ以外の兄弟姉妹(カール・テオドール、マリー・ゾフィー・アマーリエ、マティルダ・ルドヴィカ、ゾフィー・シャルロッテ、マクシミリアン・エマヌエル)は同行せず、ミュンヘンまたはポッセンホーフェン城で留守番していたと考えられる。
エリザベートの父マクシミリアン公爵は、数日前に軍人として少佐に昇進したばかりの長男ルートヴィヒ・ヴィルヘルムと共に、二台目の馬車に乗って続いた。
この長男ルートヴィヒ・ヴィルヘルムは、未来においてエリザベートに大きな悲しみをもたらす人物に関係することとなる──。
>> 一見なんの変哲もない男・ルートヴィヒ・ヴィルヘルムが起こした「変哲」

※エリザベートの持参品(トルソーと呼ばれるもの)は、すでにウィーンに運ばれていた。
>> 「皇妃エリザベートが結婚する前に用意したもの(トルソー/持参品)」はこちら
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エリザベートたちはウィーンに3日間かけて向かう
エリザベート、花嫁の旅・1日目
エリザベートは馬車の中で立ち上がり、見送る群衆に向かってハンカチを振り、涙を拭った。
馬車はルートヴィヒ通りを進み、4年前に完成したジーゲス門(Siegestor)をくぐり抜ける。
- 馬車でミュンヘンからシュトラウビングへ
-
シュトラウビングで初めて、地元の役人、音楽隊、白い衣装の娘たちによる、祝いの出迎えを受ける。
“おめでとう”の挨拶、祝辞、振り続けられる旗、花束…。 - シュトラウビングで蒸気船に乗り込み、ドナウ川を下っていく
-
シュトラウビングでエリザベートたちは一泊する。
そこでは同じような祝いの光景が、行く先々で繰り返された。
1854年4月21日 午後2時頃
エリザベートたちが乗った蒸気船がパッサウに到着、オーストリア領へ
- 場所:
バイエルン王国、パッサウ〜リンツ - 概要:
エリザベートたちがドナウ川を蒸気船で下り、経由地パッサウに到着。
いよいよオーストリア帝国領へ入る。
エリザベート、花嫁の旅・2日目
- 蒸気船「シュタット・レーゲンスブルク号」に乗船
-
エリザベートたちは、シュトラウビングで一泊すると、翌日の1854年4月21日、蒸気船「シュタット・レーゲンスブルク号」に乗船。
ドナウ川を下っていく。
- 経由地パッサウ、そしてオーストリア帝国領リンツへ
-
エリザベートたちを乗せた蒸気船「シュタット・レーゲンスブルク号」は、ドナウ川を下り、午後2時頃、パッサウへ到着。
バイエルン王国とオーストリア帝国の境には凱旋門が建てられており、オーストリア帝国の代表団が未来の皇后を出迎える。
エリザベートを乗せた華やかで煌びやかな蒸気船二隻は、ついに国境を超えて、上オーストリア、経由地リンツへ進む。
夕方6時頃、オーストリア帝国領で初の宿泊地リンツに到着。
州知事、市長、軍人、同職組合、学童、聖職者、貴族、合唱隊らが、美しい花嫁を迎える歓迎式典の準備を整えていた。
驚くべきことに、そこには愛する婚約者フランツ・ヨーゼフ1世の姿があった。フランツ・ヨーゼフ1世の動きフランツ・ヨーゼフ1世は公式の儀礼を破り、弟フェルディナント・マクシミリアンと共に、早朝にウィーンを旅立った。
エリザベートを驚かせるべく、小型蒸気船を走らせ、リンツでエリザベートを迎えに向かったのである。
これらは予定外の出来事であった。
- 夜:リンツ劇場で、祝賀公演「エリザベートの薔薇」を鑑賞
-
夜、リンツ劇場で、「エリザベートの薔薇」祝賀公演を鑑賞する。
リンツの街はあちこちにろうそくが灯され、たいまつの行列と合唱で祝われる。
1854年4月22日 早朝4時半
フランツ・ヨーゼフ1世、急ぎウィーンに戻る
- 場所:
オーストリア帝国、リンツ - 概要:
フランツ・ヨーゼフ1世、あらためてウィーンでエリザベートを出迎え、公式歓迎行事に主役として参加するため、早朝4時半に、急ぎリンツからウィーンに戻る。
1854年4月22日 朝8時
エリザベートと来賓を乗せた外輸船フランツ・ヨーゼフ号がリンツを出航
- 場所:
オーストリア、リンツ - 概要:
エリザベートたちと、婚礼に列席する来賓たちを乗せた大きな外輸船フランツ・ヨーゼフ号が、朝8時にリンツを出航した。
この外輪船フランツ・ヨーゼフ号は、この時一番の大きさと華やかさを持つ船であった。
エリザベート、花嫁の旅・3日目
絢爛豪華なフランツ・ヨーゼフ号はロンドン製であった。140馬力のエンジンを搭載したこの船は、大評判となる。
船体はバラの花飾りで覆われ、青と白のバイエルンの旗、赤と白のオーストリア帝国国旗、黒と黄色のハプスブルク家の旗がはためいていたとされる。
この祝いの日には、他の船は全て航行を許されなかった。
エリザベートは、「若きバイエルンの薔薇」となり、どこでも祝いの言葉を受け続けた。
- 緋色のビロードで覆われていた
- デッキには本物の花壇があった
- エリザベートが身を隠せるバラでできた東屋があった
- 周囲や民衆の様子
-
どこに行っても、エリザベート──若きバイエルンの薔薇──を祝う言葉で埋め尽くされていた。
仕事は中断され、何万という人々がエリザベートを一目見んと、ドナウ川の川岸に人々は集まった。
- 学童
- 農夫
- 労働者
- 婦人たち
皇帝を讃える歌や祝砲が轟いていた。
停泊地には、例外なく、次の人物たちが集まった。
- 町の有力者
- 市長
- 教師
- 聖職者
- エリザベートの様子
-
ミュンヘンからの旅もいよいよ3日目に入り、初めてのことだらけでへとへとであった。
しかし健気にもエリザベートはレースで縁取られたハンカチを振って、笑顔で耐える。
ここまでは母ルドヴィカもそばにいて、励ましてエリザベートを守り、同行した姉ヘレーネや弟カール・テオドールたちが冗談で気を紛らわせてくれた。
それでもエリザベートは、とても青ざめた顔で、無口で、非常に心細がっていたという…。
ウィーン郊外のヌスドルフに到着する前に、エリザベートと来賓たちは衣装替えをした。
ハプスブルク=ロートリンゲン家の一族、貴族、市町村の代表者などが、未来の皇后バイエルンの薔薇、エリザベートの地位にふさわしい出迎えをすべく、荘厳な凱旋門の下に並んで待ち構えていた。
エリザベートは、この日のために用意したドレスに着替えた。
- スカートの裾が大きく広がったクリノリンのピンク色の絹のドレス
- マンティーラというレースの白いマント
- 白い小さな帽子
エリザベート、まもなくウィーン郊外ヌスドルフへ到着する…!
>> 皇妃エリザベートの花嫁道中は、どのように報じられたのか?(製作中)
>> 皇妃エリザベートがウィーンへ向かう際の経由地は?(制作中)
1854年4月22日 午後4時頃
エリザベート、ウィーン郊外ヌスドルフに到着
- 場所:
オーストリア帝国、ヌスドルフ - 概要:
エリザベートがオーストリア帝国、ウィーン郊外のヌスドルフに到着。
いよいよ結婚の儀式が始まっていく。
1854年4月22日 午後4時頃、エリザベートたちがヌスドルフに到着したことを、カノン砲の祝砲と、ウィーン中の教会の鐘の音が告げる。
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世はエリザベートを出迎えるべく、まだ接岸していない船に飛び乗る。
軍服にその身を包み、バイエルンの聖フベルトゥス勲章を身につけ、その鮮やかな朱色と金糸をあしらった白と金のマルタ十字バッジを輝かせたフランツ・ヨーゼフ1世は、ひときわ凛々しかったと伝えられている。
何万人という群衆が見守る中、フランツ・ヨーゼフ1世は婚約者エリザベートを抱きしめ、優しく口づけをした。
二人の姿を見たオーストリア国民は思った、仲睦まじいこの二人は、あのマリア・テレジアとフランツ1世かと…!
フランスに嫁ぎ、皇太子妃となったマリー・アントワネットを出迎えたパリの市民のような高揚感が、オーストリア国民にはあったのかもしれない。
生活が良くなるかもしれない──そう願い、希望を抱いた国民の期待が、そこには確かにあったのである。
1854年4月22日 フランツ・ヨーゼフ号船内
船上の婚礼挨拶、そして下船
- 場所:
オーストリア帝国、ヌスドルフ、フランツ・ヨーゼフ号船内 - 概要:
歓迎の公式行事の開始。
フランツ・ヨーゼフ1世に引き続き、ゾフィー大公妃も船内へ入る。
ヌスドルフ到着時に、初めて「エリザベート婚礼行進曲(Elisabethen-Vermählungsmarsch)」が演奏された。
「エリザベート婚礼行進曲(Elisabethen-Vermählungsmarsch)は、エリザベートより2歳年上のウィーンの若きピアニスト、コンスタンツェ・ガイガーがこの特別な機会のために作曲したものである。
婚約者エリザベートから、義母であり伯母であるゾフィー大公妃の手の甲に口付けをする。
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟たち、多くの数えきれないほどの新しい叔父や叔母、いとこたちへ挨拶。
その後 新郎フランツ・ヨーゼフ1世にエスコートされ、エリザベートは下船、皇帝の婚約者、未来の皇后としてウィーンについにその足を下ろす…!
鏡張りの壁、生花、掛け布で、壮麗に飾り付けられた凱旋広場が、エリザベートのための休憩所として用意された。
その他には、政府高官、諸外国の代表、ウィーン市参事会員、高位聖職者、高位貴族、高位軍人、各州の知事や大臣が居並ぶ桟敷席が設けられた。
- ドナウ川岸やレオポルツベルクの高台まで人々が埋め尽くしていた。
- 未来の皇后への期待、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が婚約者であるエリザベートを愛していることへの信頼が示された。
1854年4月22日 午後
エリザベート、いよいよシェーンブルン宮殿へ向かう!
- 場所:
オーストリア帝国、ヌスドルフ - 概要:
エリザベートと家族、未来の皇族、花婿フランツ・ヨーゼフ1世が、ヌスドルフからシェーンブルン宮殿へ向かう。
ヌスドルフからは隊列を組み、ハプスブルク家の夏の離宮、バロック様式のシェーンブルン宮殿へ移動する。
- 先頭の馬車:皇帝フランツ・ヨーゼフ1世とエリザベートの父マクシミリアン公爵
- 二台目の馬車:エリザベートとゾフィー大公妃
- 三台目の馬車:ルドヴィカと、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の父フランツ・カール大公
- その後:その他の高貴な家族・親族たち
エリザベートたちを乗せた隊列はいくつかの凱旋門をくぐりながら、デープリング、ヴェーリング、ヘルシュメルツと通り、マリアヒルファー通りからシェーンブルン宮殿へと進んだ。
シェーンブルン宮殿、ここではさすがのエリザベートも、その美しさ、壮麗さ、マリア・テレジアイエローに染まったバロック様式の荘厳さに目を見張っただろう。
1,400以上の部屋があるシェーンブルン宮殿に到着すると、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が自ら馬車の扉を開き、婚約者であるエリザベートをシェーンブルン宮殿へとエスコートする。
1854年4月22日 午後
シェーンブルン宮殿にて、複雑な結婚の式典が始まる
- 場所:
オーストリア帝国、ウィーン、シェーンブルン宮殿 - 概要:
シェーンブルン宮殿内にて、親族紹介などの式典が始まる。
まずゾフィー大公妃が大客間でエリザベートに公女たちを紹介する役目を担う。
次に皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が、ハプスブルク家の男子成員を紹介した。
※ゾフィーの日記には、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟3人と夫フランツ・カール大公以外に、15人の大公が揃ったと書かれていたという。
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟であるフェルディナント・マクシミリアン大公が、ヴィッテルスバッハ家とハプスブルク両家の親族を紹介する役割を務め、続いて高位の宮廷官の紹介が行われた。
※時間がかかったため、エリザベートは疲弊したと思われる。
未来の皇后であるエリザベートへは、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から、次の婚礼の贈り物が贈られた。
- ダイヤモンドの王冠:
代々伝わるエメラルドをちりばめた金細工品で、10万グルデンかけて手直しされた。
エリザベート到着の数日前に不注意で床に落とされ、大急ぎで修繕された。 - 王冠に合わせたダイヤモンドのコサージュ
- ダイヤの首飾り:
プラハに住まう前皇帝フェルディナント1世より贈られた。 - 皇后の身分に相応しいダイヤ:
亡きフランツ1世の夫人(2代前の皇后カロリーネ・アウグステと思われる)から贈られた。
ここでバイエルンから付き添ってきたエリザベートの侍女たちは役目を終える。
代わりにその役目を担うのは、ゾフィー大公妃の側近、女官長ゾフィー・エステルハージ伯爵夫人(リヒテンシュタイン侯女)となる。
エステルハージ伯爵夫人は、作法に厳しい、堅苦しい女性であり、若きエリザベートの事実上の教育係であった。
エステルハージ伯爵夫人は、皇妃となったエリザベートに高位貴族の家族内の揉め事を知らせることが主要な役割と考えていた。
しかしエリザベートは、全く興味を示さなかったと言われている。
苦しみの数年を経験したあと、エリザベートはエステルハージ伯爵夫人を解雇するのである。
1854年4月22日 夕方
エリザベート、シェーンブルン宮殿のバルコニーに姿を見せる
- 場所:
オーストリア帝国、ウィーン、シェーンブルン宮殿 - 概要:
エリザベートは、夕方になって、シェーンブルン宮殿のバルコニーに姿を見せた。
年代記によれば、この日の夕方、シェーンブルン宮殿の広大なバルコニーから
ブリギッテ・ハーマン著/中村康之訳 「エリザベート 美しき皇妃の伝説」 上 ISBN-13 978-4-02-261488-9 p86
「歓声をあげる群衆に向かい、端麗な公女さまが優美な慇懃(いんぎん)さと親しみにあふれた態度で姿を見せてくださった」という。
1854年4月22日 夜
宮廷晩餐会が催される
- 場所:
オーストリア帝国、ウィーン、シェーンブルン宮殿 - 概要:
宮廷晩餐会が催される
エリザベートが到着したこの日の晩には、オーストリア帝国の贅を尽くした宮廷晩餐会が催された。
エリザベートはこの日、ヌスドルフに到着してから深夜まで続いた儀式に疲れ果てた。
すでに懐かしいミュンヘン、自然に溢れたポッセンホーフェンはもうここにない。
代わりに、見知らぬ新しい親族、貴族たちといった他人の好奇の目に晒され続けたのである。
1854年4月23日 朝
皇帝の婚約者のウィーン入場・伝統的な宮廷儀礼の儀式が始まる
- 場所:
オーストリア帝国、ウィーン、シェーンブルン宮殿〜ファヴォリータ - 概要:
皇帝の婚約者がウィーンに入場する伝統的な儀式
皇帝の婚約者がウィーンに入場する伝統的な儀式が行われた。
この儀式は、4月22日のウィーンへの到着を一度リセットした、花嫁入場という公式な宮廷儀礼の儀式であった。
つまり、形式上は「まだ正式にウィーン入りしていない」扱いのため、言い換えればやり直しのパレードである。
出発地はシェーンブルン宮殿ではなく、かつてのマリア・テレジアの居城であり、皇帝一家は滅多に使わなくなっていたファヴォリータ(現在のテレジアヌムという学校)であった。
エリザベートは朝からこの儀式のために、親戚たちや高官らを乗せた馬車と共に、シェーンブルン宮殿からファヴォリータへと走った。
そのため再度「晴れ着」である、銀を織り交ぜたピンク色の裾長のドレスに着替え、バラの花飾りと、新調したダイヤモンドの頭飾りを着用せねばならなかった。
リピツァー種(オーストリア皇室牧場で品種改良された小型の馬)の馬8頭立てが引く、ガラス張りの典礼用の馬車に、エリザベートは母ルドヴィカと乗り込んだ。
驚くべきことに、このガラス張りの馬車は、1810年、ナポレオンがかつてマリー・ルイーゼとの結婚で使用した、豪華な馬車であった。
全てが丸見えであり、静かな環境を好む母ルドヴィカも大の苦手であった。
母ルドヴィカはエリザベートを守りながら、それでもエリザベートはさらに疲労を募らせていく。
宮廷内の序列に従い、エリザベートたちを乗せたガラス張りの馬車には、次の者たちが追随し、馬車を警護した。
- 先導ラッパ隊:
行列の先導をする、馬上のラッパ手。先導ラッパ隊。
ファンファーレを鳴らして、エリザベートが来ていることを告げる。 - 前衛隊:
本隊の前に進み「これから未来の皇后が通る」と道を清める、宮廷付き前触れ隊。
警護と儀礼を兼ねた役割。 - 少年の小姓:
衣装や象徴する物(マントや花など)を扱う少年の従者。
儀式では「可憐さ」「従順さ」を象徴する。 - 近衛軍楽隊:
行列(パレード)の音楽担当の近衛軍楽隊を務める近衛警察隊。 - 補助護衛隊:
直接の武力警護をし、行列(パレード)の側面を固める、補助警護兵。 - 近衛歩兵:
皇帝・未来の皇后(今回の場合)を守る精鋭の近衛兵。
行列(パレード)では「秩序」と「威厳」を示す。 - 胸甲騎兵:
鎧を着た重装騎兵。甲騎兵ともいう。
行列(パレード)では伝統的に「皇帝権威の象徴」を示す。 - 礼砲係:
大砲の祝砲などの弾薬を扱う補助兵、火薬係。
戦闘のためでなく、儀式の礼砲を担当する。
さらに手を加え、丁寧に作っていきますので、完成までしばらくお待ちください。
楽しみに待っていてくださる方には、ブックマークをお勧めいたします。
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参考文献
この記事の主な参考文献は以下のとおりです。
さらなる参考文献は、 からご覧ください。 こちら
- ブリギッテ・ハーマン著/中村康之訳 「エリザベート 美しき皇妃の伝説」 上 ISBN-13 978-4-02-261488-9
- ブリギッテ・ハーマン著/中村康之訳 「エリザベート 美しき皇妃の伝説」 下 ISBN 978-4-02-261489-6
- 毎日放送 「皇妃エリザベート展」
- NHKプロモーション 「輝ける皇妃 エリザベート展」
- 沖島博美著 「皇妃エリザベートをめぐる旅 ドイツ・オーストリア・ハンガリー シシィの足跡をたずねて」 ISBN 978-4309226842
- Brigitte Hamann著 「ELISABETH Bilder einer Kaiserin・Portraits of an Empress」 ISBN 978-3-8500-2414-3
- Christian Sepp著 「Ludovika: Sisis Mutter und ihr Jahrhundert」 ISBN 978-3-96-395026-1
- Martina Winkelhofer著「Sisis Weg: Vom Mädchen zur Frau – Kaiserin Elisabeths erste Jahre am Wiener Hof」 ISBN 978-3-4920-7051-5
- Anna Ehrlich著/Christa Bauer著「Erzherzogin Sophie: Die starke Frau am Wiener Hof. Franz Josephs Mutter, Sisis Schwiegermutter」 ISBN 978-3-9905-0024-8
脚注
- 著者不明 「Anna porosz hercegnő (1836–1918)」
アメリカではパブリックドメインです。
その他の地域では再利用に制限がかかる場合があります。
詳しくはこちら ↩︎ - Joseph Karl Stieler 作 「Maria Anna von Bayern 1805-1877」
アメリカではパブリックドメインです。
詳しくはこちら ↩︎ - Joseph Karl Stieler 作 「Bildnis Prinzessin Amalie」
アメリカではパブリックドメインです。
詳しくはこちら ↩︎ - 著者不明 「Princess Sidonie of Saxony (1834-62)」
アメリカではパブリックドメインです。
その他の地域では再利用に制限がかかる場合があります。
美術の著作物としての原図は、著作権の保護期間が著作者の死後70年以下である国・地域においてパブリックドメインの状態にあります。
詳しくはこちら ↩︎ - Franz Xaver Nachtmann 作「Schloß Possenhofen(Possenhofen Castle)」
アメリカではパブリックドメインです。
著作権の保護期間が著作者の死後100年以内である他の国や地域において、パブリックドメインです。
詳しくはこちら ↩︎ - A.Jcdher 作 「Grand Hôtel à Ischl.」
アメリカではパブリックドメインです。
著作権の保護期間が著作権の生存期間プラス100年以下であるその他の国や地域において、パブリックドメインです。
詳しくはこちら ↩︎ - Allgemeine Zeitung, Nr. 233, 21. August 1853.
バイエルン州立図書館デジタルアーカイブ(Bayerische Staatsbibliothek, digiPress)
パブリックドメインです。
詳しくはこちら ↩︎ - 著者不明 「Herzog-Max-Palais 1900」
アメリカではパブリックドメインです。
その他の地域では再利用に制限がかかる場合があります。
美術の著作物としての原図は、著作権の保護期間が著作者の死後70年以下である国・地域においてパブリックドメインの状態にあります。
詳しくはこちら ↩︎ - Karl von Piloty、Franz Adam 作「Portrait Elisabeth in Bayern」
アメリカではパブリックドメインです。
著作権の保護期間が著作権の生存期間プラス100年以下であるその他の国や地域において、パブリックドメインです。
詳しくはこちら ↩︎ - Joseph Karl Stieler 作「Geschwister der Kaiserin Elisabeth von Österreich auf der Veranda des Schlosses Possenhofen」
アメリカではパブリックドメインです。
著作権の保護期間が著作権の生存期間プラス100年以下であるその他の国や地域において、パブリックドメインです。
詳しくはこちら ↩︎